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Natural Society and Wealthy Society


富と権力


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                   近代天皇の諸問題


               T 天皇の客体的状況ー藩閥と旧幕臣

               U 昭和天皇の主体的状況ー学問、スポーツ、観光


                       はじめに


 ここでは、天皇の意志決定過程における、客体的状況(藩閥(戦争要因)と旧幕臣)、昭和天皇の主体的状況(学問、スポーツ、観光など平和諸要因)の相互作用について考察することを基本課題としている。

 「T 天皇の客体的状況」では、天皇制の支持集団としてはいくつかあるが、ここでは、藩閥と旧幕臣の二集団を考察している。藩閥については膨大な研究史があるが、近現代における旧幕臣研究は緒に就いたばかりである。

 「U 昭和天皇の主体的状況ー学問、スポーツ、観光」においては、昭和天皇は、明治憲法で定められた諸大権をもつ権力者であり、宗教的のみならず、政治的存在であった。故にこそ、その主体的判断に総合的判断力を育成する学問と同時に、それをスポーツ、観光などで適切に作動する心身の成長が不可欠であった。

 第一に、戦争・平和などの昭和天皇の意志決定過程において、天皇の学問(帝王学などというレベルではない)はこれまで気づかなった「学問的偉大さ」を持っていたのではないかということである。よく天皇は軍事作戦にも詳しかったなどとして、それを考察する研究もあり、もとよりそれは一定の重要意義を有してはいるが、「昭和天皇の学問」とはそういうレベルにとどまるものではないということである。こうした「昭和天皇と学問」についてはここでは簡単に述べるにととめ、詳細は別稿を予定している。

 第二に、スポーツ・観光については、従来天皇はゴルフ好きであったことなどが触れられることはあったが、その本格的研究などは行われていないということである。これまでの天皇の研究においては、天皇の総合的判断力と「それを適切に作動する観光・スポーツに基因する心身の成長」の連関の研究が欠落していた。従って、昭和天皇と観光・スポーツという平和産業との連関について考察する場合、スポーツ・観光は天皇の総合的判断力を助成するものとしてとりあげつつ、まずは天皇とスポーツ・観光との具体的接点について考察する事にしたい。

 この「スポーツと観光」を考える場合の留意点として、天皇が、総合的判断力の適切な発動のための心身養成に必要な事として「スポーツと観光」に従事したのではないかという事と、天皇が外貨獲得のために国際観光政策を打ち出すこととは別だという事である。天皇は、基本的には内閣の要請に基づいて政策を詔勅・勅命などして裁可するが、天皇がスポーツ・観光に従事していてその意義を認識していても、内閣が国際観光振興の国是とすることを諮問してこなければ、国際観光振興の詔勅・勅命などを打ちだすことはできないのである。そこで、ここでは、昭和天皇において、まずはスポーツ・観光はどのような把握されていたかという基礎的事実を簡単に考察しており、さらに「昭和天皇のスポーツ・観光」については別稿を予定している。

第三に、こうした平和産業を脅かす戦争要因として明治維新を遂行し以後の政治・軍事を指導していった「藩閥」の成立・展開があったということである。征台論、征韓論が藩閥の軋轢から生じたという研究もあるように(大島明子「幕末維新期における軍閥の形成」[『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、24−5頁])、藩閥は「戦争遂行」要因ではなかったかということである。
                   
       
                T 天皇の客体的状況ー藩閥(戦争)と旧幕臣(平和)

                            1 藩閥と日米戦争

                          @ 薩長藩閥の成立
 
 封建制解体の緩急差 明治維新を遂行した人物については、西郷隆盛、大久保利通、島津久光、高杉晋作、木戸孝允、山内容堂等が周知であり、彼らが尊攘派、討幕派、公儀政体派、守旧派となって、時期的に各藩多様に推移変化しつつ、最終的には幕府側と薩長との間の主導権争いに収斂してゆく。だが、いずれが主導権を発揮し覇権を掌握しても、強大な欧米列強と対抗するには、@300弱の諸藩の財政を統一して掌握し、土地税制改革で農業を富国強兵の財源として掌握し、A武士の一部を新設軍隊の指導者にしつつ残りを有償で授産解体し、徴兵軍隊に依拠した中央集権国家を樹立するしかなかったのである。緩慢にやるか、一気にやるかの違いがあるだけである。

 つまり、幕府が輪王寺宮(北白川宮能久親王、仁孝天皇の猶子、幕府の朝敵征討防衛装置)を擁しつつ(奥羽越列藩同盟が擁立、東武皇帝即位説、明治5年北白河宮、同25年陸軍中将、同28年近衛師団長)、主導権を掌握した場合、薩長に比べて、幕府主流は変革度・スピード感は弱く、欧米列強への対抗度も弱く、欧米「侵略」度は深まるリスクはあったが、実務的人材は揃っていて、輪王寺宮を新天皇に即位させ、徳川慶喜を上院議長などに据えて、新政府を実務的に支えつつ(実際、薩長藩閥政府の実務を支えたのも彼らの多くである)、幕藩体制を解体してゆくだろう。他方、薩長が主導権を握った場合(これが現実になる)、郷土の守旧的農村構造、家臣団、守旧的久光に規定されて府藩県三治一致による緩やかな廃藩置県推進論を説き、急激な封建家臣団解体に消極的であった薩摩閥と、農民的商品経済展開で既に崩れ始めていた封建的農業構造・封建的家臣団構造を背景に廃藩置県即時断行論、徴兵令断行を提唱する急進的長州閥とに分かれつつ、前者のうちの反政府集団が弾圧されつつ(西南戦争)前者が後者に飲み込まれてゆく形で、封建制を解体してゆくのである(詳細は、拙著『維新政権の秩禄処分』参照』)。

 明治期大将の出自 日清・日露戦争の頃の出身地別陸軍大将は、@長州7人(山縣有朋、佐久間左馬太、桂太郎、山口素臣、岡沢精、長谷川好道、児玉源太郎)、A薩摩6人(西郷従道、大山巌、野津道貫、川上操六、黒木為驕A西寛二郎)、B福岡1人(奥保鞏)、C皇族4人(有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王、伏見宮貞愛親王)と、薩長が13人も占めていた。

 明治期を通して陸軍大将は31人おり、その内訳は、皇族4人、長州11人、薩摩9人、福岡2人、秋田、三重、静岡、愛知、徳島各1人である。長州は新たに乃木希典、大島義昌、寺内正毅、井上光が加わって11人、薩摩は川村景明、大迫尚敏、鮫島重雄が加わって9人と、長が薩に2人多いだけで両者ほぼ均衡しつつ、6割余となっている。明治通期でも薩長藩閥が陸軍大将の過半を占めている。

 皇族4人は上記と同じであり、各藩士出身大将は福岡(小川又次)、秋田(大島久直)、三重(立見尚文)、静岡(大久保春野)、愛知(土屋光春)、徳島(上田有澤)の6人が加わった。これは、薩長藩閥が、その他の旧藩士らの活躍が日清・日露戦後に評価された上に成り立っていたことを示している。

 通期大将の出自 次に、戦前の陸軍大将133人の出自を見ると、まず皇族は有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王、伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、久邇宮邦彦王、梨本宮守正王、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王の9人である。

 次に、長州は長州本藩の山県有朋、佐久間左馬太、桂太郎、山口素臣、岡沢精、長谷川好道、児玉源太郎、乃木希典、大島義昌、寺内正毅、大庭二郎、田中義一、寺内壽一、長州支藩長府藩の菅野尚一、山口県平民・農民の大井成元、森岡守成、井上幾太郎[工科]、岩国藩の井上光、山口出身の松木直亮の19人である。

 薩摩は西郷隆盛、大山厳、野津道貫、川上操六、黒木為驕A西寛二郎、川村景明、大迫尚敏、鮫島重雄、上原勇作、大迫尚道、町田経宇、田中国重、菱刈隆、吉田豊彦、牛島満の16人である。

 薩長以外を見ると、次の通りである。

 九州は、@福岡県で、譜代福岡藩(本人、父、祖父が福岡藩出身。以下省略)が2人(明石元二郎、尾野実信)、三池藩が1人(立花小一郎)、譜代小倉藩が3人(奥保鞏、小川又次、杉山元)、平民仁田原重行の7人であり、A大分県で、譜代杵築藩1人(河合操)、譜代中津藩1人(梅津美治郎)、日出藩1人(南次郎)、国東郡医者1人(金谷範三)、岡藩1人(阿南惟幾)の計5人、B佐賀県では、佐賀藩が4人(宇都宮太郎、武藤信義、緒方勝一、農民真崎甚三郎)がいて、C熊本県では、熊本藩が2人(林仙之、古荘幹郎)、D長崎県では大村藩が1人(福田雅太郎)で、計19人ある。

 四国は、@高知県では土佐藩が4人(由比光衛、山下奉文、山脇正隆、下村定)、A徳島県では徳島藩が2人(上田有澤、吉本貞一)、B愛媛県では親藩松山藩が3人(秋山好古、白川義則、川島義之[『愛媛県史』人物、平成元年発行])で、計9人ある。

 中国地方では、@鳥取県では鳥取藩2人(内山小二郎、西尾壽造)であり、A広島県では広島藩が1人(岡部直三郎、B)岡山県では岡山藩が4人(農民宇垣一成、岸本鹿太郎、岸本綾夫、土肥原賢二)と、計7人である。

 近畿地方では、@兵庫県では譜代笹山藩が2人(本郷房太郎、農民本庄繁)、譜代龍野藩が2人(藤江恵輔、田中静壱[田中は「郷土龍野の誉れ」の一人とされ、終戦時に第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官として継戦派に呼応せず、天皇指導の終戦を成功させた一人となり])の4人であり、A大阪では狭山藩が1人(植田謙吉)、大阪府1人(地主の出身で、サイパン玉砕後に大将に進級した小畑英良)の2人、B京都府では園部藩が1人(田中弘太郎)、京都府が1人(旗本領・園部藩・篠山藩の入り組む桑田郡神吉村の地主出身の後宮淳)の2人、C滋賀県では譜代彦根藩が1人(中村覚)、推定膳所藩が1人(中国通の喜多誠一[膳所にある滋賀二中卒])、滋賀県が士族1人(磯村年)の3人、D三重県では、親藩桑名藩が1人(桑名藩恭順後も北越・会津戦争で奮戦した立見尚文)、津藩が1人(島川文八郎)の2人で、計13人である。

 中部地方では、@福井県では譜代小浜藩が1人(大谷喜久蔵)、A石川県では準親藩金沢藩が5人(林銑十郎、阿部信行、中村孝太郎、蓮沼蕃、前田利為)、B富山県では富山藩が1人(河辺正三は正確には金沢藩領の礪波郡農民の出身である)、C新潟県では譜代朝敵村上藩が1人(鈴木荘六)、D長野県では、譜代松本藩が1人(福島安正)、譜代飯田藩が1人(安東貞美)、譜代諏訪藩が1人(神尾光臣)、外様譜代格松代藩が1人(栗林忠道)、長野(山田乙三)の4人であり、E愛知県では、御三家尾張藩が2人(渡辺錠太郎、松井石根)、愛知県が1人(鈴木宗作)の3人であり、F静岡県では幕領が1人(旧幕神官大久保春野)、譜代岡崎藩が1人(土屋光春)、駿河国が1人(井口省吾)の3人で、計18人である。

 関東地方では、@東京では徳川家幕臣2人(一橋家荒木貞夫、岡村寧次)、東京府民2人(冨永信政[娘婿が東条英機の次男の航空機技術者輝雄]、木村兵太郎[本籍は埼玉])で4人、A神奈川県では農民・平民が1人(山梨半造)、B埼玉県では親藩川越藩が1人(浅田信興)、C茨木県では御三家水戸藩が1人(菊池慎之助)、茨城県が1人(塚田攻)で2人、D栃木県では農民が1人(栃木縣人奈良彦一カの二男、奈良武次)、E千葉県では譜代関宿藩が1人(鈴木孝雄)で、計10人である。

 東北地方では、@宮城県では、仙台藩4人(松川敏胤、多田駿、今村均、安藤利吉)、A福島県では親藩会津藩4人(柴五郎、畑英太郎、西義一、畑俊六)、B岩手県では盛岡藩2人(板垣征四郎、東條英機)、C青森県では弘前藩1人(一戸兵衛)、D秋田県では秋田藩1人(大島久直)、E山形県では譜代新庄藩1人(小磯国昭)で、計13人である。

 (以上、国民軍事教育会編『現代陸軍名将列伝』大正5年、『歴代陸軍大将全覧』大正篇、昭和篇、中央公論新社、2009年、2010年、秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。『大分県人士録』大分県人士録発行所、大正3年、「近代日本における軍事エリートの選抜」『教育 社会学研究』 第45集、1989年などより作成)。

 元帥 陸軍元帥17人の出身をみると、皇族5人(小松宮彰仁親王、伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、久邇宮邦彦王、梨本宮守正王)、薩摩4人(大山巌、野津道貫、川村景明、上原勇作)、長州4人(山縣有朋、長谷川好道、寺内正毅、寺内寿一)、小倉(奥保鞏)、佐賀(武藤信義)、福岡(杉山元)、会津(畑俊六)各1人で、薩長が47%を占める。

 小 括 以上、@陸軍大将では薩長は確かに人数が多いが、圧倒的ではない事、A元帥では薩長は多い事、B長の山県有朋(天保9ー大正11年。明治22年組閣)を頂点に、薩の大山巌、山本権兵衛、長州の桂太郎(弘化4年ー大正2年)、寺内正毅(嘉永5年ー大正8年)、田中義一(元治元年ー昭和4年)ら軍人政治家が存在した事などが指摘される。

                           A 藩閥批判

                           @ 藩閥批判

                             a 四将軍         

                         イ 長閥将軍の内部批判

 まず、予備的考察として、長閥内部で、山県有朋に批判的な将軍がいたことを確認しておこう。

 山田彰義 長閥が陸軍に勢力を扶植した主因は、長州が陸軍徴兵令策定に与ったことが大きく寄与している。明治2年11月に大村益次郎が襲撃の傷が原因で死去すると、長州陸軍の主流は山県有朋に移り、岩倉使節団の一員として山田彰義が兵制調査で欧米を訪問している間、山県有朋がいち早く徴兵令を断行して、長州陸軍内での主導権を掌握した。

 陸軍に居場所を失った山田彰義は、陸軍少将の軍籍のみ維持しつつ陸軍から事実上退けられ(日本大学編『山田顕義伝』1963年、『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年など)、8年9月に刑法編纂委員長となった。山田の「子分」の原田一道は大村益次郎と「懇意」であり、同じく兵制にも関与していたが、大村死後、山県派からはじかれ、7月13日陸軍大佐、9年7月8日に砲兵会議副議長、9年11月7日砲兵本廠御用掛兼勤、11年7月30日砲兵本廠御用掛兼勤免ざれ、12年に砲兵局長と、砲兵専門家として累進した。14年7月6日に陸軍少将、陸軍砲兵会議議長と昇任した後、19年2月5日元老院議官、21年12月25日予備役に編入された(「履歴草案」[『原田熊雄関係文書』140号])。一道は、陸軍内部にこれといった支持者をもたなかったが、21年(1888年)に少将の定限年齢の58歳まで勤めて、ここに予備役に編入されたのである。

 鳥尾小弥太 山田彰義以外にも、陸軍には山県に批判的な長州将軍が何人かいた。その一人鳥尾小弥太は奇兵隊出身であり、先輩の山県の不興をかうこともなく、明治9年1月に陸軍中将、陸軍大輔、同年3月参謀局長となり、ここまで順調に昇進したが、11年12月参謀本部御用掛の閑職の憂身を味わいだした(『百官履歴』一、416頁)。自由民権運動が高揚し、竹橋事件が起きると、山県は「こうした政治運動が軍内に波及することを恐れ」、明治11年に「軍人訓戒」を起草させ、軍人の政治関与禁止を訓示した。鳥尾にこの政治批判の動きを察知したのであろう。明治13年1月、鳥尾小弥太は政府要人に『王法論』を提出し、君権と民権が相互尊重しあう理想的観点から、現状を批判し、明治12年10月ー13年3月近衛都督を最後に、以後一切の軍職を辞し、君権と民権の相互尊重を説いて藩閥を批判し始め(『王法論』明治13年4月)、陸軍内において山縣有朋と対立するなど反主流派を形成した。

 三浦梧楼 三浦梧楼は、鳥尾、山県と同様に奇兵隊で活躍し、「長州出身者では山県に次ぐ地位」を占めていた。しかし、三浦は奇兵隊時代から山県とは不仲であり、長閥主流から外され、ここに「薩長専横のために能力主義が貫かれず、『腕力不品行放蕩』を重視するような古いタイプの武人意識が生き残っていること」を批判し始め、「専門教育の充実と、これに応じた人事」(北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』筑摩書房、2012年、49頁)を主張した。彼の藩閥批判の原点が専門教育重視、旧式武人批判であったことは留意される。後述の通り、藩閥の三浦ら批判の原点も専門性だからである。

 三浦は山県と同じ奇兵隊出身の「叩き上げ」であったが、山田彰義は藩士であり、山県に批判的であったとしても、それだけで三浦に与する事はできなかったであろう。
                            
                              四将軍の「監軍」活動 

 次いで、さらなる予備的前提として、四将軍と監軍との関係を確認しておこう。

 曽我祐準 監軍部長曾我祐準は、14年2月6日に大山陸軍卿から参謀本部次長に任命され(『公文録』第二百二巻、明治十五年一月〜四月、官吏進退)、2月28日には「第三第四軍管内巡行被仰付」れ(『公文録』第二百七十七巻、明治十四年、官吏進退)、9月25日にも「東部検閲」に出発している(『公文録』第二百九十四巻、明治十四年、発着)。

 三浦梧楼 三浦梧楼は、明治11年参謀局長についていた頃、明治天皇は「近衛砲兵暴挙(竹橋事件)の原因は、単に行賞の一事に止まらず、平素有朋の処置に対する不平の鬱積するあり」とみて、山県有朋は「姑く病に託して之を避けしむるに如かず」として、「有朋・(西郷)従道の諒解を得て、遂に従道に陸軍卿兼務を命じ」た(『明治天皇紀』明治11年9月12日の項[秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社新書、2006年、64頁])。11年12月5日には、天皇は11年10月8日付三条実美太政大臣宛陸軍卿西郷従道「上申書」(参謀局拡張が主旨)に対して、参謀局独立で「参謀局と陸軍省との間に招来紛議を惹起することあらんを深く慮らせ」(『明治天皇紀』[65頁])た。こうした中で、11年12月5日に大山巌の参謀次長、12月7日に参謀局長三浦梧楼の参謀本部御用掛(閑職)、12月14日に堀江芳介の管東局長、桂太郎の菅西局長心得が発令された後に、12月24日に山県の参謀本部長が発令されたのである(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社新書、2006年、66頁)。竹橋事件後の状況の中で、山県有朋が参謀本部長に就任する過程で、三浦は参謀本部御用掛閑職に追いやられた。そうした山県「画策」人事の後に、11年12月14日西部監軍部長に就き検閲に従事することになったのである。

 以後、12年9月20日に「西部検閲」、13年9月に「東部検閲」に携わってゆく(『百官履歴』一、422頁)。14年2月には参謀本部長山県有朋の指示で第五第六軍管内の巡行が命じられている(『公文録』第二百七十七巻、明治十四年、官吏進退)。14年7月20日には中部検閲が命じられる(『百官履歴』一、422頁)。明治15年2月に西部監軍部長を免ざれ、陸軍士官学校長に転勤となる(『公文録』第二百二巻、明治十五年一月〜四月、官吏進退、『百官履歴』一、422頁)。三浦は、陸軍省、参謀本部の要職からは見放されていたのである。

 鳥尾小弥太 鳥尾小弥太は13年3月近衛都督を罷免され、14年2月「全く軍職を辞し、大阪に移住し、参禅にかくれ」(渡辺幾治郎『人物近代日本軍事史』千倉書房、昭和12年、245頁)、15年4月に軍職と無関係の太政官統計院長に就いた。鳥尾には、ほかの三人の将軍とは異なって監軍の軍歴はないが、反山県、反藩閥では共通していた。

 谷干城 谷干城の場合、明治10年西南戦争に際して熊本鎮台司令長官として勇戦して「平定の功」をあげ、10年11月9日に勲二等に叙され、明治11年12月に東部監軍部長になり、13年4月に免ぜられ、陸軍士官学校長に任命された(『百官履歴』上、404−5頁)。後述の公文書によると、監軍は免職ではなく、兼勤だったようだ。この頃、谷干城は岩倉具視らと、「綱常漸く地に墜ち、浮華の風、軽佻の俗、蕩々として、天下に道義を言ふ者なし」として、斯文学会を設立し、会長には有柄川営熾仁親王がついた(焉用氏『今世人物評伝』第二編、発兌書肆、明治31年、37頁など)。

 14年2月には、陸軍卿大山巌、参謀本部長山県有朋は、陸軍士官学校長・兼同戸山学校長の陸軍中将谷干城を「中部監軍部長兼勤被免度」とし、陸軍少将曽我祐準を「大坂鎮台司令官被免、中部監軍部長心得被仰付度」として、允裁される(『公文録』第二百七十七巻、明治十四年、官吏進退 陸軍)。14年3月16日、陸軍中将谷干城は太政大臣三条実美に、「短才無学の身を以て久敷重職を辱め恐懼に不堪、夙に汲々奉職罷り在候得共、物心と違い徒に心志を労するのみ。加之従来煩悩の病有之候処、近来殊に甚敷、殆と人事を錯乱するに至候。畢竟頑陋の身、其病根たれは、急遽全快も無覚束、依て本官被差免度、此段宜敷御執奏可被下候也」と、軍職の罷免を願い出ている。しかし、3月21日に陸軍卿大山巌は三条に、「願意御沙汰に不被及旨御指令相成候様致度」とした。3月23日「願の趣、不被及御沙汰候事」と、却下した(『公文録』第二百八十七巻、明治十四年、官員進退)。

 これに対して、谷は三条に、「只今の姿にては到底奉職の目途無之、徒に尸位素餐は独り心に恥つる而巳ならず、干城素論と齟齬するを以て、不可成得情実も有之。再度恐縮の至には候得共、本官被差免、自由の身となり、自由に保養仕度候」とした。しかし、6月1日、今回も「再応辞表之趣、不被及御沙汰候事」となった(『公文録』第二百八十八巻・、明治十四年、官員進退)。政府は、谷を野に放つの危険を恐れたのであろう。そこで、6月12日、谷干城は三条に、石黒軍医監の診断書を添えて、「別紙診断書の通り温泉適当」なので四週間ほど伊香保温泉で湯治したいとして、これは6月22日に裁可された(『公文録』第二百八十八巻・、明治十四年、官員進退)。

 こうして、四将軍は、陸軍省、参謀本部の要職からは見放され、監軍などとして陸軍の検閲などに従事して、軍内での藩閥規制のポーズを示したり、一時静養したりした。この時期、四将軍が監軍という軍人「監督」業務の責任者を勤めていた事は留意される。それは、後述の通り、四将軍は監軍を重視し、監軍を藩閥批判の一論点とするからである。

                          ハ 四将軍上奏事件

 明治14年7月には、陸軍中将三浦梧楼、鳥尾小弥太、谷干城、陸軍少将曾我祐準(柳川)の四将軍が連署して、「開拓使官有物払下げの中止」、藩閥批判の「憲法制定のための議会の設立」意見書を上奏した。これもは、おそらく開拓使払下げ過程、憲法制定議会設立過程への藩閥関与を「監軍」的観点から批判したのであろう。

 これに対して、山県は軍人勅諭を発布して、第一項で「国家を保護し国権を維持するは兵力」だから、軍人は「世論に惑はず、政治に拘らず」とした(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」[『日本の軍閥』新36頁]、尾佐竹猛『日本憲政史』日本評論社、昭和5年、289頁)。

                        二 井上、松方の四将軍利用 

 四将軍の主張は、「藩閥打破」、「軍備は国力に応」ずる事というものであった。松方デフレ下で、外務大臣井上馨、大蔵大臣松方正義は、@「過大な軍事費支出を避けるために東アジアの協調外交を主張」し、A「清国を攻撃し得るだけの武力を備えるべきだ」という「軍備拡張」を主張する薩摩出身将官を抑えるために、「四将軍派の経済的軍備論」を援用しようとした(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』37頁)。

 そこで、井上、松方は、内閣制度創設、統合参謀本部設置などの過程で、「参謀本部長に三浦や谷を就任させる人事案」、「三浦を陸軍大輔に就任させる」人事案を提示したが、山県や薩摩出身将官の反対に直面して実現しなかった。ただし、曽我祐準は明治15年に参謀本部次長についている(沢口郁蔵『今世人物評伝』第二篇、明治31年、108頁。明治15年5月1日付太政大臣三条実美殿代理左大臣熾仁親王宛参謀本部次長曾我祐準<『公文録』明治十五年、第二百二十二巻、明治十五年五月、官吏雑件>)。

 この三浦は、@「薩長の情実人事を排して、軍の昇進人事を実力本位とすべき」という意見、A「教育本部を設置して天皇に直属させて、軍隊教育を充実し、有能な将校を育成すべき」という「監軍」的意見をもっていた。曽我の参謀本部次長就任によって、「こうした陸軍改革が実現する可能性を帯びてきた」(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」39頁)。四将軍は、自分達の一拠点たる監軍を活用しようとする。

 山県は「争いの表面には立」たず、「表面上は三浦に賛成」しつつ、「実は大山が反対意見であるこ」と看破して、「裏から大山の動きをサポートしよう」とした。さらに、山県は、最新軍事知識を学んで「ドイツ留学から戻った桂太郎に陸軍改革を担当させ、『改革』の名のもとに、(守旧派イメージを植え付けて)四将軍派を追放しよう」(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」39頁)とした。しかし、若くして要職に就いた桂、川上ら藩閥のうちだす「能力主義に基づく」改革姿勢は、藩閥批判の「四将軍派の強い反発を招」き、明治18年5月8日に大山視察団の一員三浦梧楼は寺内正毅(フランス公使館付武官)に「改革之委員に桂、川上抔之人物命ぜられ候。軍人一般之渇望する所とは実々に氷炭之差を生じ、一般失望此事」と、桂太郎、川上操六主導の陸軍改革に疑問を表明した。四将軍が藩閥批判の論点とした能力主義が、長閥の最新軍事知識に裏付けられた能力主義で跳ね返されたのである。ここに、三浦は監軍を基盤に、「陸軍省・参謀本部と『三部鼎立』する『教育本部』を設け」、「それに陸軍内の教育のみならず、将校の銓衡をも掌らせる」という監軍論点を表明して、「大山・山県らによる陸軍の独占支配を阻止しよう」(小林道彦『桂太郎』ミネルヴァ書房、2006年、56ー7頁、小林道彦『児玉源太郎』ミネルヴァ書房、2012年、109頁以下も参照)と画策しだした。

 明治18年5月、大山、山県は、@「陸軍の編制に一大改革を施して、軍の大単位を師団に改め」、「全国を七軍管として各軍管に鎮台を置き、鎮台司令官(中・少将)は平時には管内の軍令と軍政を掌り、戦時には師団長となって作戦に従事する」とし、A「東部・中部・西部の各監軍(大・中将、天皇直隷)は、戦時には軍団長として管下の二師団(従来は二旅団)を統率することにな」り、B7月に「以上の措置に適応すべく参謀本部条例にも所要の改正が施された」(小林道彦『桂太郎』58頁)。ここでは、鎮台司令官とは別に、天皇直隷の監軍が戦時には軍団長として把握されている。陸軍首脳部は、四将軍の監軍を別のものに変容させようとした。

 明治天皇は、この陸軍首脳の師団・軍団編成を四将軍派の観点からとらえ直そうとした。つまり、天皇は、@その監軍に「鳥尾・谷・三浦の三将軍を挙げ、その採用を政府に促す」とともに、A「山県が求めていた大山陸軍卿による参謀本部長の兼任案に対しても、『爾後参謀本部長は、行政事務に与らずして、勲功ある将校を以て之を補すべし』と、暗に三浦東京鎮台司令官の本部長就任」を求めたのである(小林道彦『桂太郎』58頁、小林道彦『児玉源太郎』109ー110頁)。

 18年12月には「伊藤の主導によって太政官制が廃止され、内閣制度が採用」され、これを契機に伊藤、井上は陸軍主流派の陸軍卿大山を更迭して、「軍備整理に賛成していた西郷(従道陸軍中将)を後任陸相」、三浦梧楼を陸軍大輔に任命しようとし、「今度は山県も(「大山や桂の軍備拡張論が対清開戦論にエスカレートすることを警戒して」)伊藤らの軍備整理論に賛成」(小林道彦『桂太郎』60頁)した。実際には、18年12月に、西郷は、伊藤の軍備整理論には与せず、川村純義海軍卿のあとをついで、初代海相に就任し、薩の海軍をまもった。 

                      ホ 四将軍派と陸軍首脳部との「陸軍紛議」

 19年に、四将軍派(四将軍に賛同する将校・将官に、後述の月曜会が加わって四将軍派と言われるようになる)と、山県有朋、大山巌ら薩長藩閥首脳部との間で「陸軍紛議」がおきる(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』38頁)。陸軍主流派の長派桂太郎、薩派大山巌陸軍中将、川上操六陸軍中将、仁礼景範海軍中将、樺山資紀海軍中将と、陸軍軍制改革志向の四将軍派、伊藤、井上との間に起るべくして対立がおきたのである。
 
 四将軍派の側の伊藤らは、@「内閣の強力なリーダーシップによる経費節減を通じて、海軍拡張予算を捻出しよう」とし、A「参謀本部に海軍軍事部を吸収して経費節減の実を挙げ」、参謀本部長への三浦起用で「一気に大山らの勢力を殺ごう」と企図した。これに対して、大山らは「これに抵抗し、紆余曲折の末、参謀本部条例の改正は翌明治19年3月にようやく実現し」、参謀本部長に皇族の有栖川熾仁親王を迎えたが、参謀本部次長川上操六は近衛歩兵第二旅団長に更迭され、19年3月に参謀本部の陸軍部次長に四将軍派の曽我が再び就き、海軍部次長には薩の仁礼景範が任命された(小林道彦『桂太郎』61頁)。こうして、四将軍派の曽我は参謀本部の「重要ポスト」に返り咲いたのである。

 陸軍主流派桂太郎は、「陸軍省=軍政優位の組織運営をめざ」しており、「陸海軍それぞれの戦争形態は異なるのだから、無理に参謀本部に海軍省軍事部を合併しても仕方がない」として、こうした「参謀本部条例の改正に強く反対した」が、「桂の反対論」は退けられ、「陸軍軍制改革は伊藤、井上と四将軍派優勢のうちに進行」(小林道彦『桂太郎』61頁)し、いったんは四将軍派が「勝利」したかであった(小林道彦『児玉源太郎』ミネルヴァ書房、2012年、109ー110頁)。

 しかし、明治19年、主流派の薩派大山が、@「陸軍大臣に諸兵検閲権を付与することで、軍団司令部としての監軍部を廃止」し、A「得点順による進級」という能力主義を「古参順」とする年功序列的進級を実施しようとしたことに対して、四将軍派は「得点順による進級法」(能力的昇進法)を維持して、「『遅れた薩派』を淘汰していこう」とした。四将軍派は依然として能力主義だが、陸軍主流派は年功序列主義に変化したのである。ここに主流派と四将軍派は検閲条例(陸軍大臣権限強化如何)と進級条例改正(能力的昇進法)で対立し、さらに四将軍派(及びこれについては桂も)は「新たな『監軍部』(監軍には三浦の就任が予定)を設置し」て、「陸軍内の諸学校教育を監督させ」て、「陸軍の近代化」(小林道彦『桂太郎』62頁)を推進しようとした。ここで、四将軍派は監軍を人材育成の教育監督という新方向で明確にとらえ直したのである。

 まず、前者の大山の陸軍大臣権限強化には、四将軍派の参謀本部側は猛反対し、伊藤首相も御前会議で天皇に「衆議を尽くすこと」を求め、天皇は参謀本部条例改正を延期して「事態を鎮静化」しようとした。長派桂は薩派大山を抱き込んであくまで参謀本部条例を改正しようとし、大山は「それが受け入れられない場合は辞職する」としたが、薩西郷従道は「文官も含めた一斉辞職という政治的圧力を伊藤に加えて自らの要求を貫こうとし」た。しかし、桂は長州の青木周蔵外務次官、野村靖逓信次官らのみならず、大山以外に川上操六中将、仁礼景範中将、樺山資紀中将の薩派も広く巻き込んで、伊藤に対して「要求を貫こうとし」た。この過程で、桂は、「山県と薩派との単なる連絡係を超えた政治的存在感」を示し出した(小林道彦『桂太郎』62ー3頁)。

 一方、四将軍派の伊藤にとって「薩派との全面対立という政治的リスクはあまりにも大きすぎ」て、「伊藤は、進級条例に関しては大山の主張を容れ、検閲条例は明治天皇の強い意向もあって、将来監軍部を再設置するということで事態を収拾」(小林道彦『桂太郎』63頁)した。ここに、四将軍が「三浦を新しい監軍に据えようとする」企ては水泡に帰し、明治19年に陸軍紛議は薩長藩閥の「陸軍主流派の勝利」(小林道彦『桂太郎』63頁)で終わった。
 
                            へ 四将軍派の一掃 

 山県策謀は奏功し、条例発布(明治19年7月24日)の翌日(明治19年7月26日[明治十九年『官吏進退』官吏進退九、陸軍省三])に、曽我祐準は「参謀本部次長を罷免され士官学校校長」となり、明治19年7月26日には「三浦梧楼も東京鎮台司令長官を罷免されて熊本鎮台司令長官」(『官吏進退』明治十九年官吏進退九、陸軍省三)に左遷され、さらに19年7月に「四将軍派に連なる存在であった堀江芳介陸軍少将も近衛歩兵第一旅団長(19年7月5日に此辞職願[『官吏進退』明治十九年官吏進退九、陸軍省三])から金沢歩兵第六旅団長に転職」を命じられたが、「三名とも転任を拒否して非職」となった(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』39頁)。

 同時に、長閥の陸軍主流に批判的な「伊藤・井上と四将軍派の提携の産物であった『統合参謀本部』も徐々に解体に追い込まれ」、結局、明治22年3月の参謀本部条例によって、長閥の桂の意向通り「参謀本部は陸軍の参謀機関に止まることになり、海軍参謀部が海軍大臣の下に設置され」た(小林道彦『桂太郎』63頁)。

 こうして、明治19年「陸軍紛議」によって、「四将軍派は陸軍から一掃され、大山・山県を中心とする陸軍主流派体制」が確立したのである(小林道彦『桂太郎』64頁)。

 明治20年、「四将軍派の追放」後、既にドイツから招聘していたメッケルの意見に基づいて、桂太郎が主務となって新監軍部条例が制定された。この新監軍部条例は、「三浦梧楼がかねてから主張していた教育本部構想とほとんど差のないもの」であり(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』39頁)、四将軍は追放したが、彼らが残した教育的監軍機能は活用してゆくのである。三浦梧楼は、明治21年陸軍中将で予備役に編入された。以後、一言居士の観樹将軍として藩閥打倒を標榜して山県を批判しつづけてゆくことになる(三浦梧樓談『観樹将軍縦横談』熊田宗次郎編、実業之日本社、大正13年)。
  
 桂は、参謀本部優位では陸軍の長閥優位が崩れるとみてか、一貫して元の「陸軍省(軍政)優位」を重視していた。監軍については、山県、大山が交代で就任して、薩長のバランスをとったが、薩派大山は「桂の監軍設置意見に『老朽淘汰』の影を見、桂を強く警戒」し始めた(小林道彦『桂太郎』65頁)。薩には「老朽」が少なくなかったからである。

                           ト 山県閥陸軍の形成

 明治19年3月、桂ら陸軍主流派は「臨時陸軍制度審査委員を設けて」、頭脳明晰英敏な児玉源太郎を委員長、寺内正毅(仏国軍制に詳しい故に「仏国」影響の払拭にあたらせる)を委員にして、メッケル少佐(大山陸相が招聘して、18年3月に参謀本部顧問として来日し、21年3月に離日)を支柱として、「陸軍軍制改革に本格的に着手」し、「ドイツ陸軍に範を仰いだ統一的組織体」に再編し、20年監軍部(後の教育総監部)、21年鎮台廃止・師団司令部設置、22年参謀本部条例の制定などを制定した(小林道彦『桂太郎』65ー6頁、小林道彦『児玉源太郎』111頁)。

 大山、山県の陸軍中枢は、「陸軍省(次官)の桂、参謀本部の川上、監軍部の児玉」の長派「?足」に支えられ(小林道彦『桂太郎』67頁)、山県をトップに単一長閥陸軍を形成していった。その過程で、桂は社会的には「薩長藩閥勢力全体の寵児」」となったが、「藩閥内部の反感を醸成」(小林道彦『桂太郎』67頁)した。

 こうして、同じ長州出身でも、山県と同調できない将軍三浦、鳥尾小弥太、及び山田顕義は、結局排除されたのであった。

                                b 月曜会

 月曜会の結成 上述の四将軍の長閥批判と並行して、陸軍部内の若手将校らの月曜会は、当初は「三浦らの能力主義的な昇進制度の導入論」や「将校教育の充実」に賛成し、「薩長の情実人事に批判的」な態度をとった(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』39頁)。

 明治14年1月に、藩閥に批判的な長岡外史(山口藩支藩の徳山藩出身)を中心に三浦梧楼らを集めて、月曜会の第一回会合が開かれた。月曜会は、兵学の「専門知識の習得」という能力主義を重視し、「薩長の支配の中で老朽無能者が重用されることに批判的な少壮中堅将校をひきつけ」た(北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』49頁)。これは、四将軍派の藩閥批判と共鳴する所があった。こうして、月曜会は、「三浦が校長を務めていた士官学校出身者(浅田信興、長岡外史、田村怡与造ら)を中心に組織」され、明治17年に「四将軍派の堀江芳介」が会長になり、会員が増加し始めた。明治21年には中将8人、少将17人、大佐並びに同等官24人、中佐級32人、少佐級131人、大尉級480人という「大きな勢力」になった(北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』49頁)。明治21年には、鳥尾、谷、三浦、曽我の四将軍を顧問に迎えた(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』39頁)。

 月曜会の解散 三浦は、伊藤博文、井上馨の軍備縮小論に呼応して、「国土防衛を目的とする民兵的な護郷軍を構想」し、「当時三年だった兵役は一年」とした。だが、この素人的な軍備論は、「新知識を求めた中堅軍人」の容れる所とはならなかった(北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』50−51頁)。

 月曜会は、陸軍主流の桂らがドイツから招いたメッケル兵学に魅了され、明治18年頃からそういう兵学の方向から「月曜会への切り崩しが行われ、やがてそれは偕行社の中に取り込まれ」(北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』51頁)た。上述の通り、明治19年に、桂らは四将軍派を一掃したが、それに次いで、この四将軍と連関した月曜会の解散に着手した。月曜会は、元来は「純粋な兵学研究会」であり、一時桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅も会員であったが、いつしか「四将軍派の支持基盤」となっていたのである。そこで、山県、大山、桂らは、月曜会を「危険視」し、「陸軍の近代化改革に反対するもの」として、明治20年以降偕行社(陸軍将校の親睦・研究団体)を改革して、月曜会を含む「他の学術団体をすべて偕行社に合併させよう」とした。ここに、月曜会では「退会者が相次いだ」が、「一部の会員は強硬に抵抗し続け」た。結局、明治22年に「陸軍大臣の命令によって、月曜会は解散に追い込まれ」た(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』40頁、小林道彦『桂太郎』64頁)。明治44年11月に、三宅雪嶺(加賀藩医師息子、早稲田卒)は、鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』(政教社、大正2年)「序」で、「明治21、2年頃、陸軍関係に月曜会あり、時の当局者を難詰して已まず。其の消滅してより、再び之に類せる者なし」と指摘しているが、以後も長閥が存続する限り月曜会のような組織が再現する可能性を否定することは出来ないであろう。

 こうして、「山県ー桂を基軸とする山県閥が、大山ら薩摩系勢力と協力して陸軍を牛耳るという陸軍内権力構造が確定」(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』40頁)した。北岡氏は、「月曜会の成立と崩壊は、薩長ー反薩長という点よりも、陸軍の専門化という方向への発展として把握できるのではないか」と適確に指摘する(北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』52頁)。「純粋な兵学研究会」という、藩閥原理に対する兵学専門化原理の優勢のもとに月曜会を解体に持ち込んだという事は、実はそれこそが外国に留学した長閥エリート層延命の方向と合致していたのである。長閥指導層は、上述の四将軍批判、月曜会批判を通して、ドイツ陸軍を参考にした日本陸軍内部改革、先進軍事知識導入によって藩閥延命・強化をも図ったのである。

 しかし、長閥の維持はそれだけでは不十分である。下層に広範に存在する長州出身将校の「選抜」(能力のみならず、多様な情実も混在)と維持によって、長閥は一層優勢となったのである。だからこそ、以後も長閥批判者が少なくなかったのである。

 では、この頃、こういう長閥強化と相前後してどのような長閥維持装置を構築したのかを次に見てみよう。

                        A 長閥の展開

                a 長閥維持装置ー長閥育成・維持団体

 長閥は、閥族集団の維持のために、@山口県における進学助成機関・将校人材育成機関の設立、A長閥団体の設立を実施した。 

 進学助成機関 長州閥の成長・発展基盤としては、@旧藩主毛利家出資を中心とする中学教育推進のために私立防長教育会(資本金50万、明治17年)が設立され、さらにそれが財団「防長教育会」(明治31年)に改組され、地元に「帝国大学、高等学校、実業専門学校、高等師範学校入学」への進学助成組織が整備され(防長教育会『防長教育会一覧』大正9年4月、1ー83頁、永添祥多『長州閥の教育戦略 近代日本の進学教育の黎明』九州大学出版会、2006年9月)、Aさらに「武学養成所」が設置され、陸海軍諸学校、とりわけ陸軍諸学校への進学者もまた多かったのである(烏田直哉「旧制山口中学校における卒業生の進路動向」『教育学研究ジャーナル』中国四国教育学会、第21号、2017年)。

 @については、端緒的に元東京帝国大学総長、元文部大臣の旧幕臣外山正一によって次のように指摘されていた。

 外山正一の長閥分析と打破策 明治32年に外山正一は、江戸時代から幕府、諸藩は「学問を奨励」して学校を設立したが、諸藩の中で教育で「近世に至って非常に偉大なる功績を顕した」のは山口藩、長州人であり、特に享保年間に毛利吉元(長州藩5代藩主)が「大に学校を興創し・・文武の士が頻に輩出」し、毛利敬親(長州藩13代藩主)は「学事を拡張し」「規模宏壮なる学校を新築」し、文武俊才を「江戸及び諸藩に遊学」させたと指摘した(外山正一『藩閥之将来』博文館、明治32年2月、18−21頁)。長州は、その「祖先以来意識的、意志的に経営したる教育事業の徳」によって「明治政府の元勲中に於ては、最も有力なるものを、最も多く」(同上書、23頁)輩出したとする。さらに、明治維新後にも、山口県民の教育熱は「海内無比」(同上書、24ー39頁)で、伊藤博文、山県有朋、井上馨ら以下の先輩、元老が教育資金収集に「熱心に尽力」し「文武教育の大資金」で十余年前に高等学校を設立し、この故に「山口県には武学生も文学生も両者共に格外に多」(同上書、82頁)く、その結果、31年末の義務教育就学者、中等教育就学者、高等学校生徒数、「帝国大学学生」数において山口県は上位にあるとする。従って、政党は藩閥を批判するが、藩閥、県閥が「莫大の資金を以て、或は高等学校を特有して、多数の学生を養成して」いては、「藩閥若くは県閥は到底永く之を打破することは出来ぬ」(同上書103頁)とする。

 今後も「山口の勢力はますます増大せんとするの傾向がある」から、他府県が教育に熱心にならなければ、長閥を打破できぬとし、現在は「各府県人民が皆山口県人の如き熱心を以て子弟の教育を図るべき時である」(104−6頁)とする。長閥打破するには、長閥以上の教育を施せとしたのである。

 こうして、長閥は、政治、官僚、財界などにも広く裾野を広げた上で、軍に「進学」するのを助成していたのである。こうした裾野の広い長州軍閥の解体は容易ではなかった。これについては、次に項を改めて考察してみよう。

 将校人材育成機関 明治14年4月に最初の「防長武学生養成所」として「二十日会」が設立され、「富国強兵の国是のもと、優れた将校を養成するという国家的要請にそって、将校を志願する郷土の後継者を育成」しようとした。

 明治17年には、「陸軍士官学校や海軍兵学校への進学のための私塾」である「武学講習所」へと発展した。明治19年には、後述の「同裳会」本部が「防長出身の陸軍士官学校幼年学校在学者及び入学希望者を支援するため」に設立されると、名称を「防長武学生養成所」に改めた。明治41年に山口町の伊勢大路(現在の山口市)に地所建物を購入し,その後昭和15年に「忠正公」、昭和21年に戦争犠牲者の子女育成を目的とする「愛山会」と改組される(『防長武学生養成の歩み』財団法人愛山会、2005年)。 

 平成6年には、(財)愛山会の解散を受けて、その財産を継承し「ふるさと山口を愛し、心身共にたくましい青少年の育成を支援すること」を目的とした「愛山青少年活動推進財団」が設置された(一般財団法人『愛山青少年活動推進財団』HP)。長州の郷土愛は不変であるようだ。

 こうした山口武学養成所から陸軍大将になった人物として森岡守成がいる。彼は「赤貧の農家(山口農民森重五左衛門の二男)に生れ、多数の兄妹を有し、学資の出づべき途もなければ、将来は学校の先生か県庁の小吏と為るが関の山」と思われていた中で(森岡守成『余生随筆』国防協会発行、昭和12年、6−7頁)、官吏森岡正奇の養嗣子となり、山口農学校、宇賀村小学校(豊浦郡)を経て軍人を志して山口武学養成所にはいり、ここから士官候補生試験を受けて、合格したのであった。当時、山口県民には、「有力なる先輩や時めく骨肉親戚を有する馬鹿息子」に依頼する「病」に罹る者が「屡々実見」されたが、森岡守成は「真の大丈夫」は「独立独行の精神に富み、人に依て事を成すの愚を学ぶ」のであるとして努力したのであった(森岡守成『余生随筆』13−4頁)。彼は、長閥について、@「長州の青年」は「伊藤、山県、井上、桂等」一流の先輩に「倣はん」とし、「予は長州人なりと傲語して、恰も先輩の褌を借りて土俵に上りし観」があったが、A「旧藩出身の者多く、予の如き僻遠の地方より出でたる者は、単に其の数に入りしに過ぎず」、しかも「是等長州人の中には、依頼心に災ひせられ、中途にして失脚せる者尠しとせず」(森岡守成『余生随筆』14−5頁)と、長州人でも中途脱落者が多かったとする。それに対して、この森岡と一緒に、士官候補生試験を受けた山口武学養成所6人はすべて合格し、後に2人が尉官に終わったが、4人が将官まで登った(森岡守成『余生随筆』33頁)。長閥を支えた人的基盤には、こうした裾野の広さにもあったのである。この点は、次に見る如く、元東京帝大総長、元文部大臣の旧幕臣外山正一も指摘していた。

 
                       b 長閥維持装置ー陸軍内長閥団体

 「長防二州より出でたる軍人の結成せる団体」として、一品会(山県有朋、桂太郎、佐久間、大島義昌、長谷川好道、寺内正毅の宿将を始め少将以上)、同裳会(佐官クラス)が結成された(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』137頁)。

 一品会 一品会は、「旧公毛利の紋所の漢字の品に似たる」事に由来し、「陸軍部内の進級、易置(交替)は多く此会幹部の秘密協議に依て決するの常なれば、恰も軍部の奥の院たる観を存し、表面の手続の如きは畢竟世間を瞞著(ごまかす)する形式の手段に過ぎざる」(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』137頁)ものであった。

 同裳会 同裳会は、本来は前述の通り明治19年に「防長出身の陸軍士官学校幼年学校在学者及び入学希望者を支援するため」設立されたものである。明治43年に、同裳会は、伊藤寿一編集の『陸軍中央幼年学校予科 地方幼年学校 入学試験問題 自明治34年至明治42年』を刊行している。防長の幼年学校希望者への入学問題の配布などは依然として行われていたようである。

 やがて、同裳会は、「中央部、各師団より満州、台湾、朝鮮、樺太に至るまで聯隊長以上を羅致(集める)せる長閥網」となり、「彼らは一品会の諸将を見ること師父(父のように敬愛する師)の如く、如何なる命にも悖違(はいい、背く)せざらんと期し、諸将も亦陰に陽に之を庇護して、二者の関係頗る密なるものあ」(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』137頁)った。こうした「庇護」機能とはいかなるものであったのであろうか。

 たて生著『陸軍棚ざらひ』(金桜堂書店、大正10年、145頁)によると、「秘密結社同裳会」という小項目があり、同裳会の説明として、「寺内が陸軍大臣の時代(明治35年3月ー44年8月)に、長閥擁護の為の秘密結社を作り、同裳会と名命し、寺内を会長とし同閥互に気脈を通じ、同閥の非は揉み消し、閥外の非は之を発(あば)くに努めたるは隠れたれど正確な事実で、恰も憲兵以外に長閥擁護の私製憲兵を配置しあるが常態である」と、私製憲兵を全国聯隊に配置して長閥将校の諸問題を揉み消していたとある。斯くて「山口県在郷将校は固より、山口聯隊在勤の現役将校も同会員なるが故に、同臭結託結束の結果は、内外相呼応して同閥の擁護に努め、其所聯隊長をして公明なる処置を採るに難からしめたる事枚挙に遑あらず」となる。例えば、「大正3年頃某将校の姦通事件ありしが、右将校が同閥なりしため、同裳会員が内外より揉み消し運動を為し聯隊長をして公平なる処置を執る能はざらしめた」のであった。この様に、寺内陸相時代には、陸軍諸学校の在校生、それへの入学志願者の支援のみならず、防長出身将校らの諸問題「揉み消し」機能などを付加されてきたようだ。

 以上の一品会、同裳会の「根本の主義」は、諸々の意味で「長閥の権勢を擁護」することであり、基本金を設置して、「郷藩の子弟中軍人志願者の為めに資金を給」したりしたのであった(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』137頁)。これによって、寺内は、「椿山荘主人(山県有朋)を親分とし、二代将軍桂を兄分」として、「長人にあらずんば人にあらずとし、自ら率先して長人の団結を図」り、明治43年寺内が朝鮮総督に就くと、朝鮮総督府でも「長閥網に入れる者にあらざれば要路に立つ能はざらしめ」(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』159−7頁)たりしたのであった。

 一品会、同裳会批判 この一品会、同裳会に対して、鵜崎鷺城は、「教育の普及したる今日豈に人材の独り長州に限らるるの理あらんや。而も陸軍の要路にある者多く長人なるは何ぞや。士官学校及び陸軍大学校を出づる時、長人以外に幾多俊秀の士あるも後援なきが故に出世の遅く、其中遽に頭の鈍りて凡庸化するより、大抵大佐若しくは少将を以て止るを常とす」(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』137ー8頁)と、抑圧された俊秀の将来が頓挫する弊害を指摘する。一方「長人は、左まで才幹なき者も直に要路に配置されて、実務に当り、陰に陽に引き立てらるるが故に、自然的に材力発達して昇進するを得るなり」とする。しかし、「此種の閥」を「秘密結社」とするのは、帝国陸軍がこれを認めないからであるとし、「斯る私党の我軍部に存在して、権を専らにする決して保つべからず。其及ぼす処の患害実に尠少ならざるなり」(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』138頁)と、この廃止を主張する。

 同じような批判は、憲政会の永井柳太郎にみられる。彼は、一品会と同裳会とによって、「 長州軍人は今や陸軍部内の要所に伸び、いやしくも長州出身の軍人にあらざる者は、如何に俊秀の士と錐も、自ら屈して長閥に迎合せざる限り、大佐若しくは少将以上に昇進する事殆ど不可能なり。今歴代の陸軍大臣を見るに当初は多く薩摩人なりと錐も、西郷、黒田、川上等の如き先輩を先ぶと共に、其実権は自ら長州人に移り、明治三十一年以後は殆ど常に正准山県系の人物を以て之れを独占するに至れり」と指摘し、「時に外部との関係上止むを得ず長州出身にあらざる武人を以て陸軍大臣たらしむる事ありと錐も、如斯き場合に於ては常に其次官又は軍務局長の重職に長州出身者を置き、之れを監視せしむるを常としたり」(永井柳太郎「吾等は世界の白人閥を打破する前に、先づ日本の長州人閥を打破せざるべからず」『新日本』大正6年4月号[「前坂俊之オフィシャルウェブサイト」所収])と、「秘密結社」に依拠した長閥を批判するのである。

 このように、陸軍内部において、将官の一品会の下に、佐官の全国組織の同裳会が張りめぐらされ、長閥が維持・強化されていたのである。しかし、同裳会の機能変質こそは驕れる長閥の「弊害」の極であり、以後の衰退開始の象徴でもあったのである。驕れる平家久しからずである。
 
 弱薩の「利用  「弱薩強長」閥族体制ということを再確認すれば、薩摩の大山巌は西郷隆盛の親戚であり、山本権兵衛((後述の通り、征韓論争後に「西郷軍」に参加しようとしたが、西郷に説得される))、東郷平八郎(西南戦争に参加したかったが、英国留学中で物理的に参加不能)らは西郷軍に参加しようとしたように、政府に残った薩派は決起軍と心情的に一つであった。この結果、これが薩派の「遠慮」の主因となる。例えば、薩摩の参議陸軍卿・伯爵大山巌が会津の山川捨松を見染め、縁談を申し入れると、長兄の山川浩は、仇敵・薩摩人との縁談を即座に断った。しかし大山は、今度は従弟の西郷従道を介して、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内」だとして(秋山ひさ「明治初期女子留学生の生涯 ー山川捨松の場合ー」『論集』第31巻第3号、神戸女学院大学研究所、1985年)、同じ朝敵同志だとした。会津が戊辰戦争時の朝敵ならば、薩摩は西南戦争時の朝敵なのである。

 そして、この「弱薩強長」閥族体制と旧朝敵との関係は、@薩長藩閥を強化する上に寄与する人材は旧朝敵如何に関係なく積極的に登用するが、A藩閥批判するものは抑圧し排除するというものである。

 こうして、「薩摩出身軍人の頭目ともいうべき大山巌が政治的野心を持たない人物」となり、さらに「薩摩出身で、桂太郎と並ぶ若手の新進気鋭であった川上操六もまた、党閥の育成ということを念頭に置く人物」ではなくなり、「薩摩出身将官は山県閥と対峙するだけの派閥を形成しえず、山県閥と薩摩出身将官との協調体制はすなわち山県閥の強化を意味することとなった」(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、40頁)のである。特に、川上は優秀な軍人を参謀本部に登用した。

 つまり、川上操六は「博大精明の頭脳、非凡卓絶の才幹器度」を持ち、かつ「出身の薩閥なるに係らず、彼の眼中薩も長もなく、汎く天下の英俊を麾下に集めて之を撫摩(なでさする)統率し、専ら力を軍事計画に盡し」、「当時の参謀本部は人材の淵叢にして、軍部の首脳府たるの実を存」し、「参謀本部の力、能く陸軍省を制し」ていた。例えば、川上は、薩閥などに顧慮することなく、旧朝敵出身で山県に長閥批判をしたような東条英教でも、ドイツに留学して得た最新の軍事知識をもつ能力者として、彼を引き立て、参謀本部第四部長として戦史や戦術を研究させた(保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2007年、34−6頁)。また、旧御三家名古屋藩出身の大沢界雄は中佐時代に「鉄道研究のためにヨーロッパに派遣され」、鉄道国有論を提唱し、戦時の兵站輸送の専門家として、34年に「川上参謀総長が改革した参謀本部第三部長に抜擢された」(村尾国士「反長州閥の栄光と没落」『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、58頁)のである。こうして、川上操六は、日清戦争勝利で「声望を大いに高め」、薩閥に拘泥せずに「参謀本部を自家薬籠中のものとし、陸軍省を押さえた長州閥本部と、あたかも陸軍を二分するかのごとき形勢」となった(小林道彦『児玉源太郎』ミネルヴァ書房、2012年、150頁)。

 例えば、川上操六は、薩閥などに顧慮することなく、旧朝敵出身で山県に長閥批判をしたような東条英教でも、ドイツに留学して得た最新の軍事知識をもつ能力者として、彼を引き立て、参謀本部第四部長として戦史や戦術を研究させた(保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2007年、34−6頁)。また、旧御三家名古屋藩出身の大沢界雄は中佐時代に「鉄道研究のためにヨーロッパに派遣され」、鉄道国有論を提唱し、戦時の兵站輸送の専門家として、34年に「川上参謀総長が改革した参謀本部第三部長に抜擢された」(村尾国士「反長州閥の栄光と没落」『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、58頁)のである。

 一方、「薩の海軍」と言われた海軍でも、山本権兵衛は薩派を形成するという動きをとらなかった。明治7年3月、山本権兵衛は、征韓論争で下野した西郷隆盛の真意を聞くべく左近台隼人とともに鹿児島に帰ったが、西郷は「お前達は選ばれて海軍に入り修業中の身の上である。我国は支那及露西亜に隣接して国を成す以上、一朝不測の変に遭遇すれば、国防は一に海軍の力に俟つ外はない。その時こそお前達が国家に御奉公し海岳の皇恩に報ひ奉るべき一時である。目前政治向などのことに心を労せず、一意専心海軍の修業に出精するがよい」と諭された。山本権兵衛は「翁の教へに従うべき事を誓った」が、左近台は「南洲と死生を共にする素志」をのべた。西南戦争の際、山本は遠洋航海中の外地でこれを知り、参戦しようにもできなかったが、左近台は参戦して戦死した(村上貞一『偉人権兵衛』実業之日本社、昭和10年149−151頁)。

 以後、山本権兵衛は薩派などに拘泥せず、西郷隆盛の教えにしたがって、日本国の国防に邁進する。即ち、権兵衛の眼中には「日本海軍があるだけで、薩もなければ、長もな」く、「明治23年彼が海軍の要路に座して一時に九十七人を馘(くびき)ったといふ、改革の大鉈(なた)を揮ったときも、血縁的もしくは地縁的関係は彼の自由手腕を拘束する力になら」ず、「すべてが人材本位で・・有能者は他藩出身者でもドシドシ抜擢するとともに、無能者は同藩の先輩でも遠慮会釈なく馘った」のである。その結果、「幕臣の犠牲者からも怨まれたが、それよりも彼に向っていちばん怨嗟の声を投げ、非難の雨を浴びせたのは・・薩摩隼人だった」のである。権兵衛を支える海軍将官には「芋蔓には縁がない」のである。明治42年、長閥全盛時代の寺内正毅陸相の時ですら、山本権兵衛は同郷の野間口兼雄海軍少将に、「いまでも薩摩と長州の権衡がとれぬなどと不平をいふものもあるが、これはとんでもない間違ひだ。今日はもう薩長などの偏見に囚はれている時代ではない。眼中ただ国家あるのみだ」(村上貞一『偉人権兵衛』16ー8頁)と述べた。西郷隆盛の教えを守ったのである。

 こうして、薩派は、外見的には、川上操六が、かかる参謀本部と長閥本部陸軍省と陸軍を二分するかであったが、実際には、陸軍の川上操六、海軍の東郷平八郎、山本権兵衛らは一切後継薩派をつくろうとしなかったのである。

 それに対して、長派では、山県は、長閥独占を構築したいが、藩閥批判の大きさの前にその自信はなく、当面は「遠慮」する薩摩を「協調的」に取り込んでゆくのである。つまり、山県は、既に「陸軍大輔(明治5年3月9日ー6年6月)たりし頃より薩の勢力を殺ぎて陸軍を長の権下に置くの意図を有し」ていて、6年1月「徴兵制実施に際しても排薩の密計を巡らせ」ていたのである(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』145頁)。西南戦争後には。「朝敵」となった薩摩をじわりじわりとそぎ落としてゆくのである。「自らが表面に立つことなく、桂太郎をはじめとする自分の配下を改革の先頭に立たせるとともに、他方で大山巌をはじめとする薩摩出身軍人との協調体制を維持すること」によって、「極めて慎重かつ狡猾な手法」で、「反対派を陸軍部内から追放していった」(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」『日本の軍閥』40頁)のである。

 その結果、明治末期・大正初期には、鵜崎鷺城が指摘するように、「輓近長は内閣総理大臣、枢密院議長、台湾総督、朝鮮総督、関東都督、行政裁判所長官、東洋拓殖総裁等有ゆる政治上の中枢機関を独占せる」に、「薩は何の体たらくぞ」、後進を育成せず、「陵夷(衰え廃れること)沈衰」し、「今日の海軍は薩摩といふ漠然たる名称を付するよりも山本権兵衛なる一巨人に依て統率せらるるの実勢なり」(鵜崎鷺城『薩の海軍、長の陸軍』明治44年刊、9頁)という事態が現われたのであった。大正期にも上原勇作陸軍大将(薩摩陸軍大将野津道貫の女婿)、財部彪海軍大将(海軍兵学校15期首席、山本権兵衛の娘婿)の二人が薩派を挽回したかのように登場したが、実際には、共に薩摩「支藩」の都城出身であり、少なくとも上原は陸軍工兵で貢献し、「日本工兵の父」として山県閥にも評価され、一面で次述の長閥衰退過程で薩派「復活」の外観を示すにとどまり、薩閥というよりは上原閥を形成したと称されるべきものであった。

 長閥の衰退 大正8年11月寺内正毅が死に、大正11年2月に山県有朋が死去し、長閥は一気に衰退した。残った大井成元、菅野尚一、森岡守成は「『長州の三奸』『長州の三馬鹿』と謗られ」(保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2007年、75頁)た。森岡守成が昭和12年に前述のような自伝(『余生随筆』)を書いたのは、こうした誹謗に反撥したからであろう。
 
 後述の通り、大正11年11月に、東条英機はバーデン=バーデンの密約に参加して帰国し、陸軍大学校兵学教官になり、「大正12年秋の陸大37期生の入学試験」に立会い、初審時には17人の山口出身者が東条英機の策動で再審合格者はゼロとなった(保阪正康『東條英機と天皇の時代』77頁)。やがて、「陸大教官には長州出身者は採用されなくな」り、「しかも陸大教官の間には暗黙の諒解」として「長州出身の陸大受験者は初審はよくても再審で落と」(保阪正康『東條英機と天皇の時代』75頁)すようになって、長州閥の陸軍エリートコースが遮断された。

 そういう中で一人田中義一が長閥残影として生き残った。陸士旧8期には「肚の中から睦み合ひ、公私ともに助け合」うという趣旨で「鉢の木会」という同期会があったが、実体は「当時最も巾を利かしていた長閥の寵児田中義一」を中心にして、「田中に牛耳られていたようなもの」であった。つまり、「一面にはズバ抜けた親分肌の持ち主であった田中を取巻いて、名こそ立派だが鉢の木会なるものを作り上げ、・・田中の襟にぶら下がって出世しよう」と考えていたのである。知名度ある会員としては、@大将として大庭二郎(山口、大正4年中将、9年大将、15年予備役)、河合操(杵築藩、大正4年中将、10年大将、15年予備役)、山梨半造(神奈川、大正5年中将、10年大将、昭和2年朝鮮総督)、A中将として栗田直八郎(三重、大正4年中将、9年待命)、井野口春清(岐阜、大正6年中将)、橋本勝太郎(岐阜、大正4年中将、9年予備役)、藤井幸槌(山口、5年中将、8年近衛師団長、11年待命、予備役)、小池安之(茨城、大正5年中将、10年予備役)、山田良水(土佐、大正6年、中将、同時に待命)、浅川敏胤(山梨、大正3年中将、9年待命)、永沼秀文(仙台、大正6年中将、同年予備役、昭和4年後備役)、鋳方徳蔵(熊本、5年中将、7年予備役)、佐藤鋼次郎(名古屋、大正5年中将)、成田正峰(薩摩、大正6年中将、8年待命)、有田恕(広島、大正6年中将、同年予備役)、B少将らとして伊豆凡夫(福岡、43年少将、同時に予備役)、野島忠孝(島根、明治43年少将、大正3年待命)、五十君弘太郎(福岡)がいいた(大石隆基『陸軍人事剖判(陸軍士官が将軍になるまで)』161ー2頁)。こうして、田中は、「山県以来蓄積されてきた長州閥」を背景に、陸軍士官学校、「陸軍大学校出身の同期生や気の合う仲間を自己の傘下におさめ」、「従来の(強大な)長州軍閥とは質的に異なる勢力」(村尾国士「山県閥三代目 田中義一と長州閥の終焉」『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、81頁)を構築した。

 その後、田中は、大正7年に米騒動で倒壊した寺内内閣に代わって登場した原内閣の陸相に就任した。田中陸相は、陸軍次官に鉢の木会会員の腹心山梨半造を登用した。この頃には、「長閥、反長閥」は解消し、宇垣閥(金谷範三、南次郎、阿部信行ら)、上原閥(「一部の陸大閥と佐賀閥[武藤信義、緒方勝一、真崎甚三郎]が合体」)(島崎英世『陸軍解剖』月旦社、1933年、4−13頁)などが幅をきかせつつあった。大正13年1月、第二次山本内閣(陸相田中義一)が虎の門事件で倒壊し、清浦奎吾内閣で、後任陸相候補をめぐり田中義一の推す宇垣一成と上原勇作の推す福田雅太郎とが「激しく対立」したが、田中は三長官会議で「福田、尾野、宇垣」の順位で後任候補を決めた。しかし、田中は、この順位を逆にして清浦首相に推薦して、「宇垣陸相を実現」させた。こうして、「田中は、上原軍閥へ衰退への楔を打ち込み、意気揚々と政界へ転じた」(村尾国士「山県閥三代目 田中義一と長州閥の終焉」『日本の軍閥』86頁)のであった。

 鉢の木会の盛り立てた田中は、衰弱した長閥威力を補完するかのように、大正14年に300万円の政治資金を持参して政友会総裁となったが、大正15年3月に政友会総裁田中義一、山梨半造ら4人が800万円の軍事費、1千万ルーブルの金塊の背任横領容疑で告発された(松下芳男『日本軍閥興亡史』芙蓉書房出版、2001年など)。それも乗り切って、昭和2年、田中義一は総理大臣になってはみたが、後述の長閥批判に源流をもつ二葉会の引き起こした張作霖爆殺事件で辞任に追い込まれ、ここに長閥残影はとどめをさされた。

                          B 徳川幕臣 

 維新期以降の旧徳川幕臣は重要な役割を発揮するが、これに関しては、改めて言及する機会もあろう。
                      
                     C 藩閥打破と満州問題 

               @ 大正・昭和初年の長閥解体策ー満州侵略

                         イ 二葉会

 バーデン・バーデン会合 大正10年10月27日、第一次大戦後に、大正デモクラシーの展開で「国民生活の充実」が叫ばれる中で、「国家総力戦」という新しい戦争論が登場する中で、未だに「山県有朋を筆頭とする長州閥が依然として力を持」っている状況に対して、陸軍士官学校16期の青年将校の三羽烏、つまりスイス駐在武官永田鉄山(16期、旧高島藩[譜代])、ソ連駐在武官小畑敏四郎(16期、旧土佐藩)、欧州視察中の岡村寧次(16期、父は旧幕臣岡村寧永)は、ドイツの温泉地バーデンバーデンのステファニー・ホテルで深夜一時まで話し込んだ。

 永田は、@ドイツ軍人エーリッヒ・ルーデンドルフ著『国家総力戦論』を紹介し、A「大戦でのドイツの敗北は、ドイツ国民の間で沸き起こった厭戦気分が前線の兵士たちに影響を与え、それが反乱を引き起こす原因になった」と分析し、B「これからの戦争は、国民の精神そのものまで全て動員しなくては勝てない」とした。小畑、岡村は、「今の陸軍は国民とかけ離れ」、「長州閥による不公正人事が横行し、軍の近代化はままならぬ」とこれに同調した。そこで、彼らは、@「長州閥の解消と人事の刷新」、A「統帥権を国務から明確に分離すること」、B「国家総動員体制の確立」を申合わせた(萩原宙「打倒・長州閥を掲げたバーデンバーデンの密約」『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、95頁、川田稔『昭和陸軍の軌跡』中公新書、2011年)。

 28日には、岡村は、山下奉文と欧州視察中の東条英機とベルリンで会い、この会合への参加を誘った。父英教以来の反長閥の東条はこれに応じた(萩原宙「打倒・長州閥を掲げたバーデンバーデンの密約」『日本の軍閥』95頁)。

 二葉会 大正11年1月に岡村、同年11月に小畑、12年2月に永田鉄山がそれぞれ帰国し、東条と共に、「同期を中心に同志を募」り、東京渋谷のフランス料亭「二葉亭」(双葉亭ではない*)で定期的会合を開き、やがてドイツ生まれのこの会合は二葉会と呼ばれるようになった(萩原宙「打倒・長州閥を掲げたバーデンバーデンの密約」『日本の軍閥』96頁)。宇垣閥、上原閥からの「永田、小畑、岡村」への執拗な誘いをはねのけて、「バーデンバーデンの密約を実現」するにはまとまっていた方がいいという判断もあったろう(保阪正康『東條英機と天皇の時代』82ー3頁)。

*これは双葉亭と表記されることがあるが、谷崎潤一郎『細雪』に「東京では聞えている店だとか云う道玄坂の二葉と云う洋食屋」とあり、多田鉄之助『うまいもの』(時代思想社、昭和29年)にも二葉亭と記されている。土門秀平(陸軍士官学校第55期、機甲科卒業。戦後防衛研究所戦史編纂官)著の『戦争を仕掛けた国、仕掛けられた国』(光人社、2004年、74頁)では、「渋谷のレストラン『二葉亭』(渋谷区上通り四丁目23番、現在の住所で渋谷区丸山町28番)」に倣って二葉会と称されたと記し、川田稔『昭和陸軍の軌跡』(中公新書、2011年、7頁)も二葉会と記している。彼らが渋谷の二葉亭を会場にしたのは、渋谷駅前を青山方面に登ってゆくと、陸軍大学校があり、駅前には青雲館などの安下宿もあって(星亮一『鬼才 石原莞爾』光人社、2018年、59−62頁)、彼らには渋谷は馴染の場所だったからであろう。
   
 永田は、第一次大戦前後6年間「ドイツ周辺に滞在し、大戦期ヨーロッパ諸国の国家動員の事情に、陸軍内で最も精通」していたから、会の中心人物となった。大正15年4月、永田は、「若槻礼次郎憲政会内閣下に設けられた国家総動員機関設置準備委員会」の陸軍側幹事に任命され、同年10月設置の陸軍省整備局長の初代動員課長となった(川田稔『昭和陸軍の軌跡』中公新書、2011年、9頁)。

 彼らは、「動きが目立つとクーデターかと疑われ、組織を潰されかねない」ので、「一人がリクルートされると、今度はその人間が信頼できる腹心を三名用意し、もし自分に何かあった時の後継者とするという」慎重な態度で会員を増やした。昭和4年頃には、二葉会は、14期では小川恒三郎(陸軍士官学校卒14期、新潟[父、祖父の代もある。以下省略]、昭和4年事故死)、15期では河本大作(兵庫県、最終階級[以下、省略]大佐)・山岡重厚(旧土佐藩、中将)、16期では永田鉄山(旧高島藩、中将)・小畑敏四郎(旧土佐藩、中将)・岡村寧次(旧幕臣、大将)・小笠原数夫(旧小倉、中将)・磯谷廉介(旧笹山藩、中将)・板垣征四郎(旧盛岡藩、大将)・土肥原賢二(岡山、大将)・黒木親慶(宮崎県、少佐)、17期では東條英機(旧盛岡藩、大将)・渡久雄(東京府、中将)・工藤義雄(岡山県、2.26事件で待命、少将)・飯田貞固(新潟県、中将)、18期では山下奉之(旧盛岡藩、大将)・岡部直三郎(広島県、大将)・中野直三(佐賀県、少将)らが会員となっていた(川田稔『昭和陸軍の軌跡』中公新書、2011年、22−4頁、132頁、岡村寧次日記など[萩原宙「打倒・長州閥を掲げたバーデンバーデンの密約」『日本の軍閥』95頁])。

 長閥領袖山県有朋元帥の死(大正11年2月)で既に長州閥は衰退し長閥脅威は消滅し、やがて「陸軍のあるべき姿」と「陸軍がなすべき新しい戦争」が課題となっていった。その頃の軍人は、新戦争の戦場が満蒙とみる点で「殆んど一致」していた。当時の中国では、周知の通り、「蒋介石が指導する南京政府」が、北伐によって、「張作霖が頂点に立っていた北京政府を倒」そうとしていた(森山康平「満蒙占領をめざした双葉会(ママ)と木曜会」『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、99頁)。 

                       ロ 木曜会 

 木曜会は、木曜日に東京九段の偕行社で軍人が会合を開く任意団体であり、昭和2年11月、永田や東条らの二葉会に触発され、参謀本部第一部作戦課の鈴木貞一少佐が、参謀本部要塞課の深山亀三郎(昭和4年8月飛行機事故死)ら二葉会より若い将校で結成した団体で、「陸軍の刷新」、「新しい戦争の模索」、「軍の装備改善」という点では双葉会と一致していた。しかし、満蒙問題が大きな問題になってくると、鈴木が「双葉会(ママ)の主要メンバーに呼びかけ、木曜会にも出席するように懇請し、東条や永田は木曜会のメンバーも兼ねるようになった」(森山康平前掲論文『日本の軍閥』98−9頁)。

 木曜会の第一回会合で、@「陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進める」事、A「満蒙問題の解決に重点をおく」事、B「荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護り立てながら、正しい陸軍を立て直す」事が決議された(筒井清忠『昭和期日本の構造』有斐閣、1984年)。こうした革新勢力は、長州閥との対抗上、上原派(宇都宮太郎[佐賀]、町田経宇[薩摩]、福田雅太郎[大村藩]、武藤信義[佐賀])に共鳴した。町田経宇は上原に「長州閥の雄」である田中義一への対抗」として、「元帥である上原参謀総長の『擁立、元帥府の地位向上による上原の陸軍中心勢力化』」(山口一樹「1930年代前半期における陸軍派閥対立」『立命館大学人文科学研究所紀要』117号)を提唱した。

 昭和2年12月1日木曜日、第二回会合が開かれ、二葉会から17期の東条英機中佐(盛岡、軍務局課員)、横山勇少佐(会津、資源局事務官)が出席し、21期では石原莞爾少佐(庄内藩、陸大教官)、22期では鈴木貞一(千葉、参謀本部作戦課員)、23期では坂西一良少佐(陸大教官)、根本博少佐(二本松藩預地の元白河藩領、戊辰戦時は戦場、軍務局支那班員)、24期では鈴木宗作少佐(愛知、軍務局軍事課員)、深山亀三郎少佐(広島、参謀本部要塞課員)、30期では高島辰彦大尉(福井、軍務局軍事課員)が出席した(森山康平前掲論文『日本の軍閥』98頁)。彼らの多くは、軍務局、参謀本部等の佐幕系(一部旧朝敵)地域出身の佐官級軍人であった。

 昭和3年1月19日木曜日の主要議事は、「石原莞爾少佐の『我が国防方針』の口演」(100年後の世界最終戦争論)とその議論であった。石原は、その世界最終戦争論で、「満蒙を取り、そこで欧米に負けないだけの工業を興すことを前提とする」とした。当時の日本人は、「支那は漢民族の土地だが、満蒙は漢民族の土地ではない」とみていた(森山康平前掲論文『日本の軍閥』100−1頁)。

 2月16日、3月1日、4月5日と、木曜会は「満蒙問題で精力的に会合」を重ね、3月1日木曜会では満蒙占領が結論された。東条英機が要約した「結論」(判決)は、「帝国自存のため、満蒙に完全なる政治的賢了(権力)を確立する」ため、@「国家の戦争準備は対露戦争を主体とし」、A「対支戦争準備は大いなる顧慮を要せず」、B「但し、本戦争の場合において米国の参加を顧慮し、守勢的準備を「必要とす」とし、Bのアメリカについては、「政略によりつとめて米の参戦を避くべきも、戦争準備としてはその参加をも顧慮して守勢的準備(作戦量は必ずしも守勢にあらず)を必要とすべし」とした(森山康平前掲論文『日本の軍閥』101頁)。

                      ハ 満蒙占領 

 昭和3年3月、東条英機は、永田の誘いで陸軍省整備局動員課長に就いて、「国家総動員の文献を読み漁」った。東条は、二葉会での若い将校との「日本の戦争相手」の議論で、@「国家の戦争準備は対露戦争を主体とし、第一期目標を満蒙に完全なる政治的勢力を確立する主旨のもとに行」なう事、A「本戦争経過中に米国の参戦を顧慮し、守勢的準備を必要とする」事、B「将来の戦争は生存競争となる」から、「この間、対支戦争準備はたいした顧慮を要しない」で「単に資源獲得を目途とする」事などと主張した。@から、「当時の国策」(昭和2年6月東方会議で満蒙の日本権益が侵された時のみ「国力を発動」する)より「一歩進ん」で、満蒙に日本の傀儡政権つくることが「二葉会の総意」となった(保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2007年、87−8頁)。

 昭和3年6月4日、ついに二葉会が満蒙占領に動き出した。二葉会メンバーの関東軍参謀河本大作大佐が満蒙占領のきっかけとするために反日傾向の強まっている張作霖を爆殺したのである(保阪正康『東條英機と天皇の時代』89頁)。しかし、結局、「河本大佐の張作霖爆殺は満蒙占領につながらなかった」ので、二葉会、木曜会は、@「河本大佐を爆殺事件の主犯としては扱わせない」事、A「満蒙占領計画とその後の将来戦について、他のどの同志よりも明確な見取図を持っていた石原莞爾を関東軍に送り込む」事を決めた。双葉会の満蒙占領第二弾はこの石原派遣であった。河本大佐は、これについて「二つ返事でOK]し、双葉会重鎮の永田鉄山大佐は「石原は負ける戦争はしない男だ」と同意した(森山康平前掲論文『日本の軍閥』103頁)。

 11月29日(木)午後6時に二葉会が開催され、永田鉄山、東条英機、小畑敏四郎らが出席した。二葉会は、田中義一首相らは張作霖爆殺事件を「陸軍部内の直接関係者だけに責任を取らせてごまかそうという空気」に批判的であったが、「国家の大事の為に決行した」という真相が公開されることは「国際的に悪影響」があるとして、「絶対に公表してはならない」と結論した(船木繁『岡村寧次大将』河出書房新社、昭和59年、197頁)。

 12月6日には、偕行社で木曜会が「陸軍のモットー」という研究項目で開かれ、「東条英機が座長格で、21−24期の陸大出のエリートを集め、30期の高島辰彦が幹事役をつとめてい」た(船木繁『岡村寧次大将』197頁)。

 4年1月12日、二葉会は、「作霖爆破事件に関し陸軍の善後策」、「河本の救済策」を議題に会合する。永田鉄山、岡村寧次、東条英機ら新規加入者を含め「在京者全部参集」した。13日、岡村は荒木貞夫陸大校長(中将)を訪ねて、「作霖事件に関する対策運動の経過を聴取」し、次いで歩兵第三聯隊長永田鉄山と「某所に打合わせ」、翌日整備局動員課長東条英機に「昨自治の一件を報告」している(船木繁『岡村寧次大将』200頁)。

 1月17日(木)、偕行社の木曜会で「政治と統帥」を研究し、次いで岡村は永田、東条と「爆破事件につき密談」した。彼らは、「張作霖爆殺事件の公表と責任者の司法処分を政府政党筋から強要されることは、統帥権の独立に反する」とみていた。彼らは、張作霖爆殺事件を統帥権独立で対応しようとしているが、統帥権者の天皇がこれを厳しく糾弾しているのである。2月に入っても、「岡村達の善後策運動は依然続けられ」、2月13日には岡村は東条のもとで関東軍参謀石原莞爾に「河本事件につき東京の様子」を説明し、同月23日にも岡村は、東条、石原と「河本事件の善後策」を打合せた。この時の打合せの骨子は、「今後中国側から重大な挑発行為があった場合には、断乎として武力を発動し、一挙に満州問題を解決する」(石原が司会した同年5月大連での全満特務機関長会議での決議)というものであった(船木繁『岡村寧次大将』200ー1頁)。

 4月27日、二葉会が十人参集して張作霖爆殺事件などを「四谷大木戸の都鳥(料理屋)」で談じる。彼らは、「もし河本を処罰すれば満蒙問題の解決を否定することになり、国運打開は期待できない」としていた。結局、白川義則陸相は、「事実を公表せず、現役軍人は関与していないが、関東軍の警備に手抜かりがあったとして、関係者を行政処分とする」とした。5月14にち、河本は第九師団司令部付となり、「停職の前触れ」となった。岡村たちは、上層部に「この事件を利用して一挙に満蒙問題を解決」しようという腹がない、ならば「我々がやろうじゃないか」と思い上がり始めた(船木繁『岡村寧次大将』201ー4頁)。

 こうした満蒙問題の切迫化に前後して、木曜会の会員は、20期では橋本群(広島県、中将)・草場辰巳(滋賀県、中将)・七田一郎(佐賀県、中将)・吉田悳(旧庄内藩士、中将)、21期では石原莞爾(旧鶴岡藩、中将)・横山勇(千葉県、旧会津にも関係、中将)、22期では本多政材(長野県、中将)・村上啓作(栃木県、中将)・鈴木率道(広島県、中将)・鈴木貞一(千葉県、中将、東条側近)・牟田口廉也(旧佐賀藩、中将)、23期では清水規矩(福井県、中将)・岡田資(鳥取県、中将)・根本博(福島県、中将)、24期では沼田多稼蔵(広島県、中将)・土橋勇逸(佐賀県、中将)・深山亀三郎(中佐)・加藤守雄(少将)・本郷義雄(旧笹山藩、中将)、25期では下山琢磨(福井県、中将)・武藤章(熊本県、中将)・田中新一(旧村松藩、中将)・富永恭次(長崎県、中将)に膨れ上がった(川田稔『昭和陸軍の軌跡』22−4頁、132頁)。

                   二 一夕会

 昭和4年5月16日には、以上の二葉会、木曜会が合同して満蒙支配を進捗すべく一夕会が結成される。

 二葉会・木曜会の合同 昭和3年10月に石原莞爾(旧朝敵鶴岡)が関東軍主任参謀に、昭和4年5月には板垣征四郎(旧朝敵盛岡)が河本大作後任の関東軍高級参謀になる。これは当時陸軍省人事局課員であった陸軍少佐加藤守雄(旧朝敵仙台)の働きかけによるとみられている。この石原莞爾(父石原啓介は庄内藩の漢学者)と板垣征四郎(祖父板垣桑陰は「南部藩の漢学者」)は共に漢学者の家に生まれ、支那には尊敬を抱きつつも、満州は支那ではないとして、満州事変をひきこすことになる(福井雄三『板垣征四郎と石原莞爾』PHP、2009年、序文、17−19頁)。

 昭和4年5月16日には、冨士見軒で、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成していた二葉会と、鈴木貞一、深山亀三郎、石原莞爾ら木曜会が合流して満蒙支配などを目指す「一夕会」が結成され、荒木貞夫中将(東京、旧幕臣[一橋家])、真崎甚三郎中将(佐賀、農民)、林銑十郎中将(石川、旧加賀藩)を盛り立ててゆこうとする(川田稔『昭和陸軍の軌跡』17頁、船木繁『岡村寧次大将』204頁)。長閥批判などで結成された集団が、ここに満蒙支配という植民地推進集団に発展したのである。 

 5月19日会合で、@「陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める」、A「満蒙問題の解決に重点を置く」、B「宇垣系、上原系」の人事抗争に歯止めをかけ、長州に「好感を持っていなかった」荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り立てる事などが決められた。@に関連して、木曜会の土橋勇逸は、東条、永田に、「長閥の衰退時代しかしらない」ので、「長州出身者を極端にいじめるのはゆきすぎ」ではないかと尋ねると、東条は「長州人にはどれだけの人材がいじめられたと思うか。憎んでも憎みきれない長州人などご免こうむる」と激して答えた。永田は、「今は過渡期」で「時間が必要」と答えた。同席した木曜会会員は「一夕会は非合法手段やクーデターで軍内を制するのではなく、時間で軍内を制する」と見た(保阪正康『東條英機と天皇の時代』91−」2頁)。

 6月28日、白川陸相は天皇に、関東軍司令官村岡長太郎中将は「依願予備役」、河本大作大佐は「停職」などの行政処分を奏上したが、「国軍の軍紀は厳格に維持するように」と申し渡していた天皇は激怒し、田中義一に辞任を命じた。一方、一夕会らはこれを軍令違反とし、「軍の最高首脳の態度」に強い不信を抱いた(、船木繁『岡村寧次大将』204ー5頁)。

 一夕会と満州事変 昭和5年5月に、石原は、参謀演習旅行等に講話材料として「軍事上より観たる日米戦争」(『石原莞爾資料』原書房、昭和42年、48−9頁)を配った。ここでは、@「日米戦争は必至の運命」であり、「日米戦争は先づ持久戦争 次て決戦戦争」であり、A日米持久戦争は「支那問題」(「平和なき支那を救ふは日本の使命」)が原因となり、日米決戦戦争は「東西両文明の最後的選手たる日米の争覇戦」となり、B日米決戦戦争の性質は、「飛行機による神速なる決戦にして未曾有の悲惨なる状態を願出すべく 人類最後の大戦争」になるとした。
 
 こうした日米戦争遂行のためにも、石原らは満蒙を根拠地にして混迷する中国を救済しようとする(浜口裕子「石原莞爾の対中国観を追う」『政治・経済・法律研究』拓殖大学、21−1、2018年9月も参照)。まず、石原は、昭和6年4月には、[欧州戦史講和]結論として、次の世界大戦は、「西洋文明の選手権を握」った米国と、「漸次東洋文明の選手権を握らんとする」日本との間に起こるとし、「我国刻下の最大急務は・・対米戦争計画」を樹立する事だとする(『石原莞爾資料』69頁)。同時に、昭和6年4月「満蒙問題解決の為の戦争計画大綱」(対米戦争計画大綱)では、@戦争目的は、「満蒙を我領土とする」事、「西太平洋制海権の確保」(1「フイリピン」「ガム」を我領土とし、止むを得ざれば「フイリピン」を独立せしむ、2「成し得れば『ハワイ』を我領土とするか、或は之か防備を撤去せしむ)、A「米国のみを敵とすることに努む」ように「戦争指導方針」をとること、そのために、(1)「支那本部には成るべく兵を用いるを避け 威嚇により 支那の排日及参戦を防止す」、(2)支那問題が解決し難い場合には「一挙に南京を攻略し 中支那以北の要点を占領す」などとした(『石原莞爾資料』原書房、昭和42年、70−3頁)。 
 
 昭和6年8月には、鈴木貞一が軍事課支那班長に、東條英機が参謀本部動員課長に、武藤章が同作戦課兵站班長に就任するなど、満州事変開始期には、陸軍中央部の主要中堅ポストは一夕会メンバーで占められていた。また、昭和6年8月に荒木貞夫が教育総監部本部長に就任した。昭和6年9月の満州事変勃発に伴い、鈴木貞一は軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、彼らは、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる(川田稔『昭和陸軍の軌跡』22頁など)。

 一夕会の分裂 昭和8年4、5月頃、「一夕会内部で、バーデン・バーデン以来の盟友である、永田と小畑の政策的対立が表面化」して、「陸軍中央における皇道派と統制派の抗争がはじまる」(川田稔『昭和陸軍の軌跡』88頁)。

 長閥元老山県有朋がいれば、こういう軍内派閥の「横暴」を「管理」する事はできたであろう。ある意味では、究極的なポイントで軍横暴の危機を回避する存在として、新たに「学問」で内実を固めた天皇が「浮上」してくるともいえよう。

                   ホ 「維新」論
 
 薩長藩閥は、そのアンチ・テーゼとして以上のような閥族集団を軍内部に生み出した。こうした閥族集団は、薩長藩閥を生み出した明治維新論の批判、国家改造論ををもたらしてゆく。ここで、大正、昭和期に出現した維新論を整理して、藩閥集団の批判・否定と維新論との連関をおさえてておこう。こうした問題意識と分析視角は、明治維新研究にとどまっていて長期的視野をもたないと、出てこないであろう。

 第二維新論 大正初期の藩閥打破の憲政擁護運動の過程では、藩閥側から「第二の明治維新」論が提唱されていた事が留意される。即ち、大正3年4月10日に、長派井上馨、長派山県有朋、薩派松方正義が後継首相を検討する際、井上が「第二の明治維新を達成」(『世外井上公伝』)するとして、「大ひに(後任首相として)大隈説に賛成」し、大山、松方も賛成している。井上は、「久しく贔屓にしていた政友会が、二個師団増設問題以来、長派に背反し、薩派に寝返りを打って政権を壟断することに、いたく癇癪をおこしていたので、これに報復するには政友会の苦手である大隈を起すに若かず」としたのである(升味準之輔『藩閥支配、政党政治』日本政治史2、東京大学出版会、1988年、254頁)。長閥側にとっては、自分達の推進してきた明治藩閥政治を肯定する立場から、長閥危機に対処するために、薩長藩閥による「第二の明治維新」を実行しようとしたのである。そこには些かも「大正維新」という観点はなく、あくまで藩閥元老による「第二の明治維新」なのである。しかし、大正4年9月井上馨死去、大正5年12月大山巌死去、大正11年1月大隈重信死去、大正11年2月山県有朋死去に続いて、ついに大正13年7月松方正義の死去で、藩閥元老は消え去った。「藩閥」元老による第二の明治維新論は、これら「藩閥」元老の死を以て潰え去った。

 新維新論 一方、大正6年憲政会員永井柳太郎(金沢士族)は、「今日の長閥諸公は、上 帝室を遮り、下人民を抑へ、自ら徳川幕府を継ぐべき中間的勢力たらん」とし、帝室復古の「維新の大精神を無視するのみならず、又実に日本をして日本人の日本たらしむるが為め死生を賭して奮闘したる各藩志士の赤心を揉璃するものと云ふべし、我等にして今長閥及び長閥の附馬たる政友会を倒し、藩閥政治の弊風を根絶する能はずんば、又何の面目あって地下に吾等の勇敢なる祖先に見えんや」とする。長閥批判をする彼にとって、明治維新とは、「維新の理想に反して、薩長が幕府にとって代わって薩長藩閥政府を作った」と把握して、「新しい維新が必要になろう」(大正6年、憲政会員永井柳太郎「吾等は世界の白人閥を打破する前に、先づ日本の長州人閥を打破せざるべからず」(『新日本』大正6年4月号[「前坂俊之オフィシャルウェブサイト」所収]))としたのである。ここには、藩閥元老の第二明治維新論とは異なる維新論が提起されている。第二明治維新論ではなく、こうした維新論が昭和維新につながってゆくのである。

 昭和維新論 昭和期にはいると、「第二明治維新」論ではなく、昭和維新論が提起される。藩閥打破を企図する勢力には、明治維新が、薩長藩閥によって旧幕戦力を打倒して実現したとすれば、この昭和維新とは非薩長派が積極的大陸進出によって陸軍長州閥を抑え込もうとするものだった。昭和維新は確かに昭和初期に軍部・右翼が国家改造をめざして明治維新になぞらえて掲げたスローガンという側面もあったのだが、藩閥打破をうたう側ににすれば、同じ維新でも、王政復古の基本的性格は継承しつつも、昭和維新論は明治維新の全面的継承ではなく、明治維新の「藩閥的」側面の批判(「維新の理想」)を含んでいたのである。故にこそ、大正11年山県有朋死去後の陸軍長州閥の排除は、満州独断出兵と絡んで進行してゆき、満州出兵で陸軍内で勢力を拡張して推進されたのである。そして、後述のような長閥排除の新閥族集団<二葉会・木曜会→一夕会>を軍内部に生み出した。こういう観点から見れば、「昭和維新」論は、潰え去った藩閥に最後の鉄槌を下そうとしたものとも言えよう。 
 
                        D 藩閥空白のリスク 

 リスク要因 明治、大正期に、軍と政党とのバランスを調整してきた藩閥が、その弊害助長と政党成長で影響力を脆弱化させ、衰滅したらばどういう事態をもたらすであろうか。「第二の明治維新」とは異なる「昭和維新」とはいかなるものになるであろうか。さらには、藩閥元老、特に竹橋事件以来軍反乱には極刑を持って臨んできた山県がいなくなるとはどういう事を意味するであろうか。

 軍が持つ、政党にはない「強味」とは、@それ自体が強力装置である事、A憲法で天皇のみに統帥権が認められ政党が軍令・軍政に容喙できない事、B山県が軍内反政府派(四将軍ら)を徹底的に抑え込むために現役武官のみしか陸軍大臣、海軍大臣になれないとして(軍部大臣現役武官制)、かつ政党の文官大臣制を阻止したが、これがその意図をこえて政党内閣の組閣・倒閣の作用をした事である。

 Aについては、大日本帝国憲法第73条で「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」とあるから、軍部の統帥権乱用を防止するように統帥権条項改正の余地はあったが、この改正提議自体が統帥権に触れることになるからか、戦後に日本国憲法が制定される事を除いて実際にはこうした憲法改正条項が実際に運用される事はなかった。却って、明治40年4月発布「軍令」第一号で、「陸海軍の統制に関する勅定事項は内閣総理大臣の副署を必要とせず、陸軍大臣・海軍大臣の副署のみで発布される」とし、「これによって統帥権の独立を楯に軍の計画を内閣の承認無くして既定事項としてしまうことが可能」となってしまった。伊藤博文は、この軍令案を提示され、「伝家の宝刀も抜き方を誤ると命取りになる」と猛反対したが、山県に「押し切」られ、以後「『統帥権の独立』による陸軍の専横」で「日本国の命取り」となってしまった(真辺将之「山県軍閥の形成と反山県閥」[『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、41頁])。

 Bについては、大正2年6月13日、山本権兵衛内閣のもとで、「陸軍大臣及同次官に任せられるる者は現役将官とするの規定は特に存置するの必要なき」として、廃止された(『公文類聚』第三十七編第三巻、大正二年、4号文書)。しかし、昭和11年5月に発足した広田弘毅内閣は、山県有朋が政府批判的な退役将官の影響nadoを排除しようとしたように、問題ある退役軍人(二・二六事件後に予備役となった荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派など)の影響を遮断するという口実で軍部大臣現役武官制を復活させた。

 その上、政党については、国民の間に政党発展の期待は持続的に強いというわけではなく、政党は経済振興策で財界に「癒着」しがちであり、いまだ「政治資金規制無法」状況下で財閥・財界などから活動基盤の政治資金を集めたりして、とかく腐敗の温床となって、国民や軍の批判を浴びやすかった。

 こうした権力構造のもとでは、政党人が軍への所謂シヴィリアン・コントロールを実現することは到底不可能であった。既に欧米主要国では軍への文民統制論(シヴィリアン・コントロール)がなされていたから、欧米に留学した軍人らはこれを知っていたはずである。ならば、そうした軍人の中から、文民統制論を提言する者はいなかったのであろうか。

 文民統制論 当初から、軍部大臣の就任者は、明治4年7月に、兵部省職員令で「卿一人 本官少将以上」とし、「海陸軍賦 壮兵 海防 守備 征討 発遣 兵学 操練等の事を総判す」(『法令全書』明治4年、709頁)とされた。

 しかし、明治7年には、木戸孝允は、「文明各国の政事・・文武之大別判然」としており、「武官に政治的発言権を与えることは『後来之大不幸』」とした(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社新書、2006年、106頁)。既に、西欧諸国の文官への武官兼任の禁止が知られていたのである。

 山県有朋は明治天皇に、明治18年1月に「陸軍卿伯爵大山巌(明治13年初代陸軍卿就任)・・帰朝し」たので、いまだに続く山県内務卿の「参謀本部長の兼任を解き」、「故のごとく」大山「陸軍卿を兼任せしむる」ことを請うた。一方、廟議は、「有朋の兼任を解き熾仁親王を以て之れに補せられん」事を願った。ここに、参謀「本部長の後任を大山陸軍卿の兼任とするか、熾仁親王(左大臣)にするかで意見がわかれた」。これに対して、明治天皇は、「文官にして武官を兼ぬるは、恰も甲冑を帯して筆を執るが如し、不理の甚しきものなり。爾後参謀本部長は、行政事務に與らずして、勲功ある将校を以て之に補すべし。是れ帷幕の機務に参画し、大臣を経由せずして直に親裁を仰ぎ、事を行うという参謀本部条例の趣旨に協(かな)う所以なり」(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』110−2頁)とした。天皇も武官の文官(陸軍卿)兼任を懸念していたのである。

 明治19年2月27日に公布された陸軍省官制(明治19年勅令第2号)では、第一条「陸軍大臣は陸軍軍政を管理し軍人軍属を統督し及所轄諸部を統轄す」、第二条「陸軍省職員は武官を以て之に補す。其文官を任用するときは各省通則に依る」(『法令全書』明治19年上、20頁)とされた。一方、明治19年2月27日に公布された海軍省官制(明治19年勅令第2号、官報公告は3月5日)では、第一条「海軍大臣は海軍軍政を管理し軍人軍属を統督し及所轄諸部を統轄す」、第二条「海軍省職員は翻訳官を除くの外武官を以て之に補す。其文官を任用するときは各省通則に依る」(『法令全書』明治19年上、65頁)とされた。ここには陸軍大臣、海軍大臣はともに「少将以上」という規定はなくなり、文民でも就任できる可能性があった。

 明治23年3月27日に海軍省官制の第一条で「海軍大臣は海軍軍政を管理し軍人軍属を統督し及所轄諸部を監督す」としたが(『法令全書』明治23年、74頁)、陸軍は明治23年3月27日「勅令第51条陸軍省官制」抄録の「陸軍省職員定員表」では「大臣 将官}、「次官 将官」とした(『法令全書』明治23年、149頁)。しかし、24年7月24日に陸軍も海軍同様に「官制から『将官』の字句を削除」して「文官でもよい」事を含意した。これは、「憲法発布、議会開設という時代の機運に適応」しようとして、「陸軍省職員定員表」から将官も字句を削除したという側面もあろうが(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社新書、2006年、45頁)、正式手続きでそれをきめたというわけではない。

 その後、@「政党の勢力が伸びて来た時点で軍事予算、国防問題等を処理するには、軍部大臣の地位を特別、例外なものにしておく」必要がでてきた事、Aそれに政府批判的な予備役将官が乗じることを防止する必要もあって、明治33年に第二次山県内閣は「軍部大臣現役武官制」とした(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』46頁など)。つまり、明治33年5月19日、内閣総理大臣山県有朋、陸軍大臣曽禰太郎は、勅令193号「陸軍省官制」で、第一条「陸軍大臣は陸軍軍政を管理し陸軍(新たにこれを付加)軍人軍属を統督し及所菅(轄を菅に改正)諸部を統轄す」と微修正しつつ、「付表」の「備考欄」の第一で「陸軍大臣及総務長官に任せらるる者は現役将官を以てす」と文章で明示したのである(『法令全書』明治23年、222ー231頁)。

 その後、明治42年に、太田三次郎海軍大佐(慶応元年12月、尾張藩下級士族太田小兵治の次男として誕生)が、陸海軍大臣への文民登用論を提唱したことが確認されている。

 彼は二回の渡欧経験(明治32年4月から35年3月帰国、42年7月ー43年8月帰国)を経て、海軍改革の念を強めていった。明治44年2月に太田は『朝日新聞』に海軍改革論を寄稿したが、海軍次官財部彪海軍少将は「余り首肯し得べき議論に非ず」(日記)と判断した。2月28日には、太田は財部から、太田の「海軍改革論」は「海軍の為、国家の為、不利益を来し得るもの」だから公刊不許可とする旨を「告知」され、4月17日には予備役に編入された。「野に放たれた」太田は、7月に軍事研究会主催の会合で「海軍改革論」を講演し、7月18日付『時事新報』にその要約が掲載され、8月15日発行『日本及日本人』にはその速記録が報じられた。

 44年8月6日には、名古屋の市会議事堂で、新愛知新聞社、金城同志会の主宰で太田講演会が開催された。その中で、今までの海軍改革論には無かった新しい意見として、英・仏・米のように陸海軍大臣職務は「行政事務」だから文民でもよい事が加えられたのである。海軍大臣が武官で独占されていることが海軍腐敗の改革が一向に進まない一因とみたのであろう。彼は、「軍規を拵らへ軍備を整へるよりも、先づ内部の腐敗を一掃する事が一層重大なる事ではないかと思ふ」とし、「どこから改革に手をつけたらよいかといえば、海陸軍省の武官組織からである。海軍に軍令部、陸軍に参謀本部があり、軍令を軍務から差引くと、まったくの行政事務であるから、海・陸軍大臣は現在のように現役の武官に限る理由はない」とした。そして、「私は敢て人身攻撃をする積りではないけれども、海軍大臣や陸軍大臣の成立を御覧なさい。士官学校を出たり、兵学校をでたりして、只サーベルを使ふだけの人間で行政府の一冊も読んだ事のないものが行政事務を取扱」っていると批判した。さらに、太田は、「英・仏・米では海陸軍大臣が武官でなければならぬ理由は少しもない。『何んとなれば、軍隊と云ふものは国家の政略に伴って働くべきもので、政略に依って左右せらるべきものである。政略とは、最も密接な深い関係を有つて居る内閣の下に在って当然の事で、内閣を離れて軍務大臣の勝手に任すべきものでは無からうと思ふ』」とし、「イギリスでは内閣が軍隊を動かしている」(以上、秦達之『海軍の「坊ちゃん」 太田三次郎』論創社、2005年、19−44頁)とした。太田は、軍隊は文民政治家のもとに統制され、政治家の見識で腐敗を一掃すべきだとしたのである。

 以後、大正期に関しては、少なからざる軍部大臣文官研究がなされる(松下芳男『日本軍制と政治』くろしお出版、1960年、藤田嗣雄『明治軍制』信山社、1962年、伊藤孝夫『大正デモクラシー期の法と政治』京都大学出版会、小池聖一「ワシントン海軍軍縮会議前後の海軍部内状況」『日本歴史』第480号、1988年5月、小林道彦「政党内閣制の政軍関係と中国政策―@918−1928年」『政策分析2004年』九州大学出版会)。これらによると、大正期のデモクラシーの高揚過程で、政党が軍部抑制の手段として軍部大臣文官制が提起され、軍部側も、海軍は模範国の英国が軍部大臣文官制をとっている事、陸軍は総力戦対応から一定度考慮する動きもあったが、軍部大臣文官制導入が統帥権問題に関係してくることから、基本的に軍部は反対であり、大正デモクラシー衰退とともに、軍部大臣文官制問題は消え去った。

 その後、森靖夫氏(「軍部大臣文官制の再検討」『年報政治学』筑摩書房、2008年1月)によって、@大正末期に総力戦の観点から「陸軍省は、宇垣陸相、参謀本部と違って、「軍部大臣文官制を積極的に受け入れる方向で具体的な研究が進められ」、大正14年4月付極秘公文書としてまとめられた」事を解明され、A昭和4年7月浜口雄幸内閣が成立以後「軍部大臣文官制研究に関わった」陸軍幹部河野一輔(昭和3年2月)、畑英太郎死去(昭和5年5月)が消え、昭和5年「ロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる統帥権干犯問題」がおき、海軍では「海相を頂点とする軍政優位の統制が動揺し始め」、文官制どころではなくなり、「この結果必然的に、陸軍省は東部大臣文官制を検討する必要がなくな」り、昭和6年9月関東軍が満州事変を起こすと、「軍部大臣文官制を実現する可能性がなくなった」事を解明された。

 それでも、昭和16年、石原莞爾中将は、陸軍決別挨拶状で、「国難を救う根本」策の第四策として、「軍と政治」の関係において、「軍部大臣の文官制を主張し、軍の政治に関与すべからざることを力説」したのであった(松下芳男『昭和の軍閥像』土屋書店、昭和55年、310頁)。満州国建国以後、軍人が中国本土に戦線を拡大して行ったことなどの反省を踏まえたものだけに、それなりの説得力があろう。

 こうして、シヴィリアン・コントロールは、大正デモクラシー期には陸軍でも導入が検討されていたが、結局、満州事変以後の中国本土侵攻作戦でその試みも完全に潰え去った。その結果、文民政治家ではなく、強大権限をもつ軍人政治家こそが、軍クーデターの発生の芽を摘み取り、「巧みに」軍をコントロールできるというシステムが維持されたのである。こういう権力構造のもとでは、国際観光のような平和産業を振興することは至難であり、例えば高橋是清が日銀幹部時代に正貨獲得のために国際観光振興策を唱えていたが(拙稿「明治期の国際観光振興政策を中心に」参照)、その提言の実行に着手することはできなかった。

 なお、英国のチャーチル海軍提督のガリポリ上陸作戦、ドイツ政治家ヒトラー、イラクの弁護士フセインなど、「文民政治家は軍人以上に熱心に関わり、軍人の消極的意見を抑えて激しく戦争を遂行した例は少なくない」(防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』かや書房、1999年、28頁)という指摘もあり、確かにシヴィリアン・コントロールの文民統治が必ずしも軍暴走を根源的に抑止するのではない事が留意される。だが、それでもなお、「チャーチル海軍提督のガリポリ上陸作戦」は、@元軍人(1894年士官学校卒で1899年除隊)の海相チャーチル(1911年就任)は必ずしも「純粋」文民とは言えないのであり、A大敗に激怒してたてた作戦でありつつも、英仏連合軍のジョン・ド・ロベック提督に最終的決断を委ねており、後者二例は民主主義国家とは言えない特殊例であろう。従って、文民統制にもこうした「特殊」な問題がある事を考慮とした上で、然るべき文民統制を総合的観点から構築してゆくことが重要となるであろう。

 藩閥元老の消滅 大正期には、藩閥元老が消え去り、後述の反長閥集団が陸軍で「暗躍」し始め、満州支配を通して上記軍事的固有作用を発揮して大きな影響力を発揮してくる。公家の西園寺公望のみが昭和14年90歳で死去するまで元老として存在したが、一人では無力な公家元老は利用されるだけである。そこに、昭和9年5月まで、薩閥「亡霊」ともいうべき日露戦争英雄東郷平八郎が、東宮学問所総裁を終えて「准」元老的存在として浮上してきた(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、参照)。しかし、この寡黙で権謀術数に疎い政治音痴の「准元老」(非公式)東郷平八郎は、軍人反乱に極罰を以て抑え込むという姿勢に欠けていて、昭和6年の三月事件、十月事件、7年五・一五事件の主謀者らを厳しく処罰することなく、昭和11年の二・二六事件をまねくことになり、軍縮財政を提唱していた高橋是清は暗殺された。山県がいれば、軍人勅諭第一条で「抑國家を保護し國権を維持するは兵力に在れは、兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ、世論に惑はす政治に拘らす、只々一途に己か本分の忠節を守」れと、軍人の政治行為を禁止していたから、これをきびしく処罰したであろう。

 さらに、長閥「亡霊」が今度は宮中に現れた。明治元勲木戸孝允の孫の侯爵木戸幸一である。昭和5年に近衛文麿の抜擢で内大臣府秘書官長になり、昭和11年二・二六事件の厳罰処理に統制派と協力して従事した。これが評価され、昭和12年第一次近衛内閣の文相、厚相に就任し、政治的経験を積んで15年内大臣として宮中に復帰し、16年10月に第三次近衛内閣の後継首班一候補として東条英機をあげることになった。長州がこともあろうに、旧朝敵盛岡出身で、その上父子二代に亘って軍内で反長閥グループの指導者の一人として活動してきた東条英機を後継首班に選定したのである。これは、いかに藩閥不在が政治過程で複雑微妙に作用したかを示している。なお、山県有朋の孫山県有道も大正11に侍従、式武官になるが、侍従長、内大臣府に迎えられることなく、宮中から消えていた。


                            2 天皇と日米戦争

 無謀な対米戦争において、戦争リアリズムに徹して、消極的開戦(開戦には反対だが、この反対を強硬に主張すると、軍部反乱を招き、天皇排除された軍部独裁政権が成立する恐れがあり、それでは終戦工作が至難になる可能性があるとして、提唱される)、積極的終戦を推進した者こそ天皇であった。天皇は、消え去った薩長戦争リアリズム(勝てるか、いつ軍を引くべきか)に代わって、終戦を導く主要存在となっていたのである。元来大日本帝国憲法第13条で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とされ、宣戦と講和は天皇大権の一つでもあったが、天皇は両者の意味や連関は「体験談」などを通して具体的に理解したであろう。

 強硬な開戦・継戦論者でもある一夕会系(統制派と皇道派)などの国体護持などは、天皇には「迷惑」だったにちがいない。一夕会系の国体護持には国民の視点が欠けており、国体を守る軍隊ではあっても、国民を守る軍隊ではなかったからである。これは当時の軍部にも広く指摘される所でもあり、敗色濃厚になると、国民数千万人の犠牲を前提とする本土決戦論が提唱されたのである。しかし、『大日本帝国憲法』第13条で天皇は「臣民ノ幸福ヲ増進」するとされており、天皇は、国民あっての国体こそ肝要である事は十分承知しており、軍部過激派が天皇裕仁をヒロヒトと呼び捨てにして、自分達の意にかなわねば他の親王に替えればいいと思っていることまで知っていた。

 一夕会は、満州、関東軍という中国駐在軍隊をテコに藩閥を凌駕し、打倒して、薩長主導の明治維新に対抗して陸軍幕僚主導の昭和維新を断行しようとし、軍部大臣現役武官制で政党内閣を打倒し、ドイツ同盟、日ソ中立条約でアメリカを牽制し、満蒙資源領有から東南アジア資源領有による東亜共栄圏構想によって、対米戦争に踏み込んでいった(川田稔『昭和陸軍の軌跡』を参照)。その陸軍構想にはアメリカに勝てるか否かという戦争リアリズムが欠如して、構想倒れの作戦を自己満足的にたてていった。

 つまり、そこには勝つか負けるかという戦争リアリズムはなく、幕僚の出自(非薩長、陸士秀才如何で二葉会[14−18期、主要メンバーは永田鉄山<旧譜代高島藩>・小畑敏四郎<旧土佐藩>・岡村寧次<旧幕臣、以上3人は陸士第16期三羽烏>、板垣征四郎<旧朝敵盛岡藩>、東條英機<17期、旧朝敵盛岡藩>]、木曜会[20−25期、昭和2年結成、武藤章<25期、熊本県>・田中新一<旧朝敵村松藩>]、一夕会[昭和4年5月に二葉会、木曜会が合流して結成])の如何に、資源自給共同体(満蒙領有論から大東亜共栄圏論)問題、敵国(英米蘭)、同盟国(独伊)、「中立」国(ソ連)の組み合わせが絡んで、結局、狭い軍事理論のもとに、陸軍・海軍の対立した状態で(これは、@憲法で天皇が陸海軍を統べるとしたためもあってか、統合参謀本部・幕僚会議などといった統合機関が定着することなく欠落した事、、Aそれに乗じて薩摩・長州が藩閥維持のために「長の陸軍」・「薩の海軍」を生み出し、藩閥利害が希薄・消滅した後も陸海軍対立は残った事に由来)、狭い視野に立脚した「成行」(国民利益・国家的利益というより個的面子・省益の優先)で、東条英機らが指摘したように幕末ペリー来航を日米戦争の遠因(遠因とはいっても、決して副次的要因ではなく、基本的要因ではある)と意識しつつ(それを知ってか、マッカサーは降伏文書調印式場になった戦艦ミズーリにペリー艦隊旗を掲揚していた)、恰も旧朝敵諸藩が優勢な官軍に雄々しく立ち向かったように、はるかに優勢なアメリカに勇ましく戦争を推進してゆくのである(川田稔『昭和陸軍の軌跡』などをも参照)。

 このような総合的観点からみれば、日米戦争は幕末維新の帰結でもあったという事になろう。そういう側面があったとしても、個研総学の観点からすれば、この戦争は抑止し回避し、平和、平和産業、その一つとも言うべき国際観光振興に従事すべきであったという事になるのである。以下、この点を瞥見しておこう。

 この「ペリー来航の意義」について関心のある方は、本篇末の注を参照されたい。


                    二 天皇学問と平和ー観光 

                     1 個研総学と天皇学問 

 軍事学 現在筆者は個研総学の立場から、国際観光―国際平和の観点から天皇の根本史料などを総点検しているが、天皇は少年時代から圧倒的に軍事学の講義をうけて、各種の陸海軍作戦に参画し、各種の軍事講話を聴いていた。国際観光ー国際平和ー国際親善の重点的指導は見られないのである。天皇が、国際観光―国際平和ー国際親善が重要だと認識し始めても、それを軍事の上位に位置付ける国際情勢にはなかったのである。

 この点を簡単に触れておこう。明治41年3月27日、皇孫裕仁の4月学習院入学決定につき、「東宮職と学習院長乃木希典との間」で皇孫教育方針が決められ、第六項で「将来陸海の軍務につかせらるべきにつき、其の御指導に注意すること」とされた(『昭和天皇実録』第一、東京書籍株式会社、平成27年、264頁)。さらに、「皇族身位令」(明治43年3月)第十七条の規定で「皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス」(この満10歳から武官とは、陸軍幼年学校の受験資格が満13歳以上・15歳未満であったことを考慮しても、いかに早いかが分かろう)とされたことから、明治45年9月11日(11歳)裕仁は「霊柩御拝礼のため御参内の際、陸軍少尉正装を御着用」して以来(『昭和天皇実録』第一、597頁)、一貫して陸海軍将校であった。即ち、大正3年10月31日(13歳)には、陸軍歩兵中尉(近歩第一聯隊所属)、海軍中尉(第一艦隊所属)(昭和天皇実録』第二、71頁)、大正5年10月31日(15歳)には陸軍歩兵大尉、海軍大尉(『昭和天皇実録』第二、238頁)、大正9年10月31日(19歳)には陸軍歩兵少佐・海軍少佐(『昭和天皇実録』第二、640頁)、12年10月31日(22歳)には陸軍歩兵中佐並びに海軍中佐(『昭和天皇実録』第三、東京書籍(株)、平成27年、957頁)、大正15年10月31日(25歳)には陸軍歩兵大佐、海軍大佐に陞任する(『昭和天皇実録』第四、東京書籍、平成27年、370頁)。そして、薩閥海軍の領袖たる元帥海軍大将東郷平八郎は、東宮学問所の設立から廃止まで同所総裁を務めて、終始裕仁の教育にあたった。なお、これは裕仁があくまで皇太子であることに淵源する規定であり、天皇になると、大日本帝国憲法第11条規定「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」が適用され統帥権者となる。なお、明治15年1月4日「軍人勅諭」で「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」として以来、天皇は大元帥とも称したが、憲法にはこうした大元帥規定はない。

 以上の過程で、弟宮三人や諸皇族は、陸軍士官学校・陸軍大学校、海軍兵学校・海軍大学校に入学して所定の軍事学を履修したが、裕仁はこれらに入学することはなかった。裕仁は、@薩長藩校などで剣術・漢学などを学んだ武士出身将官から戊辰戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争などの実戦についての経験談などから戦争実態などを柔軟に知り、A軍艦演習に参加した帰路に艦上では兵士たちの余興大会などで生身の人間としての兵士に接し、B生物学実験材料の採集に親身に協力してくれる生身の人間としての兵士らに接していて、陸海軍諸学校で得られない「生きた軍事学」を修得していたのである。

 *こうした「明治の元勲と言われる人」は「専門教育を受けた人はほとんどいな」かったが、「全体的視野をもっていた」のである。しかし、昭和の日本は「専門化され、細分化され社会」のスペシャリストが登場し、士官学校、陸軍大学校では教養的教育欠如の専門将校育成がなされた(福田和也『山下奉文』文芸春秋、2004年、46−7頁)。


 生物学 こうした軍事教育とならんで、裕仁は生物研究にも従事した。裕仁の生物研究は、自然豊かな宮城、各御用邸で各種多様な生き物に目覚めた事が発端である。それは、軍事と矛盾することなく行われた。例えば、大正2年正月24日熱海で「郊外教授として水雷艇にて初島へおでかけ」、「水雷発射管を御見学にな」り、初島海岸で「海藻や貝類を採集」したりしたのであった(『昭和天皇実録』第一、629頁)。やがて本格的な生物学研究施設が設置された。大正14年2月10日には、皇太子は、宮内次官関屋貞三郎から「赤坂離宮内苑旧テニスコート跡に御研究室を新築する件」の言上を聴許した(『昭和天皇実録』第四、巻十二、大正14年、206頁)。2月27日に宮内次官関屋貞三郎、内匠頭東久世秀雄から、「建築計画中の生物学研究室に付属する花苑と皇太子妃との関係」について言上を聞き、「皇太子妃御畑の移転を要する場合」には「花粉の影響など御研究に支障を与えざる適当の位置を定める」事に決定した(『昭和天皇実録』第四、巻十二、大正14年、213頁)。5月9日には、「御研究並に御進講事項に関する予定案」が作成され、まず「御進講要目」として、@「生物の形態と其組成」、A「細胞の形態、機能、増殖の諸現象」、B「生物の発生現象」、C「生物の増殖と性別理論」、D「生物の変異性と遺伝性」、E「遺伝学説の一班」、F「雑種成生の法則と新種の出現」、G「品種改良に就て輓近の趨勢」、H「進化学説の変遷と優生学説の一班」が指摘された。次に、予備的実験要目として、@「微生物の形態、機能、培養上の御実験」、A「動植物の系統的御観察」、B「動植物の組織学上の御実験」、C「動植物の発生学上の御実験」、D「遺伝学上の御実験」、E「雑種の形成と品種改良に就き御実験」があげられた。最後に付帯事項として、@人事(助手若干名、省仕二人、園丁1名)、A設備(顕微鏡、ハンドレンズ、解剖用具、寒暖計、黒板など備品、薬品類)、B経費があげられた(『昭和天皇実録』第四、247−250頁)。9月19日には皇太子は「新設の生物学御研究室に初めて」入った。研究所は、木造平屋建一棟45坪で、「実験室、図書器械室、準備室、飼育培養室」を備え、「赤坂離宮御苑の東隅」にあった。「研究室への定時のお成りは当分毎土曜日午前中」と定め、「約一時間を御進講、爾余の時間をもって御研究を行われる」こととなった。「その他の曜日については、御政務等にお差し支えのない限り、随時お成りになる」(『昭和天皇実録』第四、325頁)とされ、軍務、政務とのバランスがはかれらた。昭和5年3月に「侍従長に提出された報告書」によると、「研究室開設以後の御進講の要項」は、@生物学の要旨は、「純理及び応用の二方面より生物学輓近の趨勢に就き御進講す」る事、A「生物の起源説と生物進化説」について進講する事、B「細胞の形態と其増殖現象」について進講すること、C生物体が簡単体型から複雑体型に至る過程の進講、D「生物体の発生過程」についての進講、E「生物の形態の比較考察」についての進講、F「生物の整理現象」についての進講、G「実験遺伝学の要旨と品種改良の論拠」についての進講となった(『昭和天皇実録』第四、325ー6頁)。

 こうして、軍事学とならんで、本格的な生物学研究体制が構築され、天皇は自然科学の実験・法則などの思考方法を着実に身に付けていった。天皇が生物学研究をする事に対しては、軍部などの中には批判、疑問をいだくものもいた。鈴木貫太郎侍従長に、「ある時友人のうち、陛下は生物学をおやりになる、それは国家にどういふ利益があるとも考えられない。もっと歴史と地理を御勉強になったらと御奨めしたいといふ者があった」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』中央公論社、2013年、305頁)。だが、鈴木は、「陛下は、さういふ御当人よりは歴史地理ははるかに明るい識見をお備へになっていらせらる」と、こうした批判に柔軟に対応している。

 軍事学、生物学研究だけではない。裕仁が成人しても学問所システムは維持されており、天皇になっても「皇太子時代に引き続いて、定例御学課(月[臨時])、火曜日[行政法、仏語]、木曜日[軍事学、経済及び財政]、金曜日[皇室令制、仏語]、土曜日[生物学]を行な」うことにな(『昭和天皇実録』第四、647頁)ったのである。この他にも、天皇は、適時、各分野の専門家から多くの講話をうけている。この様に各専門領域のエッセンスを専門家に語ってもらう事は、天皇だからできたことであろううが、これは諸学科のポイントを「効率的」に的確に把握させたであろう。

 実は、こうした天皇の学問方法は、生物学、軍事学など専門領域を二三持ったうえで、幾十幾百もの専門領域のエッセンスを効率的に習得して、判断能力の精緻化・総合化をはかるという学問方法を示唆しているのである。経済学、工学などの専門研究者が総力戦研究に加担していったのに対して、総合的判断力を発揮する学問の志向者こそが、日本を救ったのである。次には、この一端を瞥見してみよう。

                          2 天皇大権と総合的判断力

 天皇の学問=個研総学は、大日本帝国憲法で決められた諸天皇大権の遂行に客観的な総合的判断力を提供したであろう。

 天皇大権と補佐 ここで、これらの天皇大権について改めてまとめてみると、(1)統治権(第一条、第四条)、立法権(第五条)、法律執行(第六条)、議会の召集・開会閉会・解散(第七条)、(2)公共安全、災厄回避(第八条)、公共の安寧秩序の保持及臣民幸福の増進(第九条)、(3)各部官制、文武官俸給の制定、文武官の任免、(4)陸海軍の統帥(第十一条)、陸海軍の編制及常備兵額の決定(第十二条)、宣戦布告・講和締結・条約締結(第十三条)、(5)戒厳宣告(第十四条)、(6)爵位勲章など栄典授与(第十五条)、(7)大赦特赦減刑復権の命(第十六条)となる。とても一人で処理しきれる領域ではない。

 この天皇の国務は「非常に数の多いもの」で、二大別すると、「統帥の範囲に属する御軍務」と「統帥権の範囲外の一般の御政務」となる(奈良武次『御側近に奉仕して』財団法人中央教化団体聯合会版、昭和11年11月、9頁。なお、陸軍大将奈良武次は侍従武官長)。後者の「統帥権の範囲外の一般の御政務」とは、「総理大臣以下13人の国務大臣が管理している事柄」であり、「御側で命を奉じて之を取扱ふのは侍従長」である(奈良武次『御側近に奉仕して』9ー10頁)。「統帥権に属する所の御軍務即ち軍事の事柄」は、「総理大臣と雖も関係致しませ」ず、「陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、海軍軍令部総長、教育総監」の「大体此五人」が担当するである(10頁)。「此軍事に関係する事項を命を受けて御側で取り扱ひます者が侍従武官長」だとする(奈良武次『御側近に奉仕して』11頁)。この政務、軍務は「大日本帝国全般の事」であるから、「非常に沢山ある」のであり、「陛下の日常御多忙」となる(奈良武次『御側近に奉仕して』11頁)。

 だから、「輔弼」(国務大臣[帝国憲法第55条第1項「国務各大臣は天皇を輔弼し、その責めに任ず」)、輔翼(「参謀総長[明治22年参謀本部条例第2条「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参シ」]、軍令部長[明治26年海軍軍令部条例第2条「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参シ」、元帥府[明治31年「元帥府設置の詔」で「朕か軍務を輔翼せしむる」])とは別に、膨大な補佐(元老、内大臣[明治40年11月1日皇室令第四号「内大臣府官制」第二条「常侍輔弼し内大臣府を統轄」し、第一条「御璽国璽を尚蔵し及詔書勅書其の他内廷の文書に関する事務を掌る」]・秘書官長@・秘書官、枢密院議長・副議長・顧問官[毎週水曜日午前が二ノ間での定例賜謁日]、宮内大臣・宮内次官、侍従長・侍従[常侍奉仕或いは供奉。侍従長は「陛下のお身の回りを一切とりしきる役目」で「政治、軍事に一切関与せぬ立場」Aではあったが、実際には侍従長でも天皇から政治的下問を受ける場合もあったB]、侍従武官長・侍従武官、軍事参議院議長・参議官、宮内省御用掛[例えば、南次郎陸軍中将、参謀次長は「陸軍軍事学」を教える宮内省御用掛、山崎覚次郎元東京帝大教授は「経済及財政」を教える宮内省御用掛、東京帝大卒の生物学者服部広太郎は大正年間から皇太子に生物学を指導した宮内省御用掛C、暁星出身の山本信次郎海軍少将はフランス語指導の宮内省御用掛D、刀剣鑑定に深い知識を持つ子爵松平頼平は刀剣掛の宮内省御用掛E、外務官僚沢田廉三は天皇の外交研究の御相手をする宮内省御用掛F、元朝鮮総督府官僚工藤壮平は書に通暁し「宮内省にあって御物係」を担当する宮内省御用掛Gなど)がいた。

 これほど膨大な補佐員のもとで、天皇の憲法規定の諸行為が遂行されるのであるから、明治初年から昭和期の皇道派に至るまで見られた天皇親政運動とは物理的に不可能事を要求するものであった。それを遂行すれば、仮に天皇に勤務時間が24時間あったとしても、足りなかったであろう。だから、天皇親政運動とは、現状の天皇側近らの排除を求めるものだが、実際には、新たに自分達か自分達の意向を体現する側近を送り込もうとするものであったろう。つまり、近代天皇とは、憲法的には最高意思決定権者ではあるが、事実上は立憲君主として自らは政策決定をせずに、輔弼、輔翼、補佐らに政策決定を委ねざるをえない存在なのである。これは、事実上は伊藤博文らが決定したものだが、明治天皇もまた憲法下の近代天皇のありかたとして了解したものであった。

 当時の「天皇親政」論 この「憲法下の天皇」については、後述の通り、西園寺公望、ジョージ五世などから指導され、天皇もしっかり理解していた事が留意される。この事は、昭和6年、陸軍内に「満州事変の直後に政権奪取を企図する十月事件」などが起き、秩父宮が「軍部青年将校の動向」を察知し、天皇に「親政の断行と明治憲法の停止を迫」り、天皇は「激しい議論」をかわして、秩父宮に「自説を引っ込め」させた事からも再確認される。

 では、当時の秩父宮は、いかなる「天皇親政」論をもっていたのか。昭和3年12月24日に荒木貞夫陸大校長が秩父宮入学に課した問題「皇軍統帥の本義を述べ且我国情と自己の本分とを基礎として皇軍の将来に対する其抱負を要述す」において、秩父宮が提出した論文において、@「我国体 万世一系の天皇を戴く立憲帝国なる」ということは、「上に有徳の天皇在(ま)しまし、下に忠誠の臣民ありしによる」、つまり「天皇即国家にして天皇は国民の天皇なりとの思想を根底とするものなり」とし、これは「現下一部の徒、固(まこと)に空虚なる国体論(国民不在の国体論ー筆者)を唱へ、裏面に於て畏(おそれおお)くも、利己の為に天皇を私有し奉らんとするものあり。危険極まれりといふべし」と批判し、「天皇は永遠に国民の天皇にて在(あら)さざるべからず、是れ我国体の根本精神なればなり」としつつも、Aしかし、恐慌下の国民は貧困に苦しみ、「経済界恐慌の傷、未だ癒えず、貿易不振にして実業界活気なく、職を求むるも業なく、人口過剰にして、物価徒らに高き等、その原因なり」とし、「東北地方では借金苦から一家心中、娘の身売りが始ま」り、秩父宮は「此等は何れも一朝一夕に恢復改善の手段を講ずるを得ず」とし、こうした不況の主要原因について、「不自然なる貧富の懸隔、利己的狡獪(こうかい)なる政治家の跋扈、無理解且消極的のみなる思想取締り等に指を屈すべし」とし、「働けど食ふ能はざるもの一方、親譲りの巨万の富を擁し、何等国家的奉公の事なく徒食するものあり」、「不合理」な「社会」だとし、B「上には国民を欺瞞し自己の為には国家もなき徒、国政に参与」し、「清廉にして愛国の至情に燃ゆる有為の士は何処(いずこ)にも志を延ぶる余地なし」と、政治腐敗も鋭く指摘し、C「青年が過激な思想を抱くは一生の一過程にして此の種の人々の中より真の愛国者の出づるは屡々」であり、「一度投獄せらるれば、愈々其主義の闘志たるべしとの信念を強からしむ」とし、「思想取締りを力に拠らんとするは根本的誤謬」であり、「若し危険思想発生の真因を明かにし、之が対策を見出せば赤露の宣伝品、恐るるに足らず」としていた(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』文芸春秋、平成元年、165−8頁)。

 『本庄繁日記』(近代日本史料選書、6−2、山川出版社、1983年)によると、昭和6年末から7年春にわたる頃、秩父宮はこうした国内諸問題の深刻化にいたたまれず、これに対処すべく自分にできることは、「兄天皇の前に進みでて直々に社会の実情を知らせ、『社会の不合理』を正すための自分の意見を述べるほかない」と考え、「兄宮を補佐する弟宮の責務」として(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』193頁)、天皇と面談し、「しきりに陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦止むを得ず」と主張したのであった。

 天皇は侍従長鈴木貫太郎に、「祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政と云うも自分は憲政の命ずる処に拠り、現に大綱を把持して大政を総覧せり。之れ以上何を為すべき。又憲法の停止の如きは明治大帝の創製せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なり」と反駁したと話している(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』194頁、田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、158頁)。余りに重大であり、かつ秩父宮が陸軍将校でもあるので、鈴木侍従長はこれを本庄侍従武官長に洩らしたのであろう。

 こうした「立憲君主と絶対君主」の異同などは、幕僚ら軍部主導層も認識していた。例えば、秩父宮は「トラウトマン工作をつうじて、蒋介石政府との間に和平を行なうべき」と考えていて、昭和13年1月11日に、参謀次長多田駿に「和平の成否こそが国家の将来に及ぼす影響が大きい」として、「陛下の清らかなお心の鏡に映して、その御判決をお願いすべきである」としたことがあった。しかし、多田は、「文武の当局の意見があわぬから、陛下にその御裁決を求めようというのは、一切の責任を陛下に負わせる態度であり、輔弼の責任を放棄する違憲の行為である」と指摘している(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』文芸春秋、平成元年、321−2頁)。こうした認識にたてば、軍部側も、立憲君主論を「悪用」しようと思えば、できた事を示唆している。

 そして、この憲法規定と政策決定実体との連関を高度に維持するものこそ総合的判断力を涵養する学問であった。これについては、別稿「天皇の学問」を予定している。

 古代ギリシャの王政論 天皇の学問体系を考慮する時、父がマケドニア王アミュンタ3世の侍医だった縁から、前343年にマケドニアのアレクサンドロス(アミュンタ3世の子ピリッポス2世の子)王子13歳の家庭教師となるアリストテレスの学問体系を想起する。紀元前1世紀ロドスのアンドロ二コスによれば、「アリストテレスの著作集を見ると・・・六つの部類に分けられる。(一)論理学、修辞学、(二)自然学(これは総論としての『自然学』と『天体論』『生成消滅論』、生命哲学としての『霊魂論』などをふくむ)、(三)動物学の研究、(四)自然学の後に学ばるべきものとして形而上学、すなわち第一哲学、(五)論理学と政治学、(六)芸術論または美学」(今道友信『アリストテレス』講談社、2006年、108頁)であるとする。なぜアリストテレスがこうした広範な学問領域を構築したのか。仮説ではあるが、これは彼の学問意欲のみならず、父が将来生れて来るギリシャ統一国王となるべきマケドニア王子の総合的判断力の涵養としても彼に直接間接に指示していたからかもしれない。

 だから、アリストテレスは、プラトンが、「哲学者達が王となるか、或いは、王達が哲学するに至るまでは、人間にとって諸々の悪は決してなくなることはないであろう」としたことを批判して、「王たる者にとって、哲学することは、不必要であるばかりでなく、むしろ妨げとさえなり得るものである。彼にとって為すべきことは、本当に哲学している人々と交わり、彼らの言に耳を傾け、よく彼らの勧めに従うことである。そうすることによって、彼はその統治を、言葉を以てではなく、善き行いを以て充たしことになるからである」(『王たることについて』『アリストテレス全集』17、岩波書店、1977年、608頁)と主張した。アリストテレスは父からマケドニア王子の教育を父から示唆されていて、ここでは、王は総合的判断力をもつ哲学者になる必要はなく、王子の教師・側近が哲学者であればよいとしたのであろう。

 しかし、日本では明治初年から大久保利通らによって君徳培養が提唱されており(『大久保利通文書』など)、天皇は、君徳をもつ「哲学者」に育成されつつも、臣下の輔弼・輔翼・補佐から助言を受ける存在でもあったとも言えよう。従って、輔弼、輔翼、補佐なども天皇に助言する「哲学者」を構成すると考えれば、アリストテレス、プラトンの「君主ー哲学者」の連関問題は、戦前日本では「総合的判断力をもつ徳ある天皇ー『哲学者』であるべき輔弼・輔翼・補佐」の連関ともいえるであろうか。


 注 @、昭和5年10月28日に貴族院火曜会リーダー近衛文麿の抜擢で商工省官僚侯爵木戸幸一が内大臣府秘書官長に就任する(『木戸幸一日記』上巻、東京大学出版会、1991年、42頁)。『昭和天皇実録』五では、(a)5年9月27日に前任者子爵岡部長景の退任、慰労は述べられているが(683頁)、(b)10月31日、金曜日、午前、御学問所で天皇は「新任の内大臣秘書官長木戸幸一に謁を賜う」(709頁)という記事があるのみで、木戸幸一の内大臣秘書官長任命時期の記載はない。因みに、この木戸幸一、原田熊雄、近衛文麿は学習院高等科から京都帝国大学法科大学政治学科に進学し、木戸と近衛は、原田の紹介で京都市左京区の別邸清風荘に住む元首相西園寺公望と面識を得て(角田竹男「木戸幸一研究」『北大法政ジャ―ナル』23,2016年12月など)、木戸、近衛、原田は“園公三羽烏”とも言われる。
 木戸幸一と同じ長州出身の山県有道が大正12年から侍従を勤めていたが、木戸幸一とは異なり、公爵山県有道が宮中で要職をしめることはなかった。因みに、木戸幸一父の木戸孝正は、明治35年に東宮侍従長兼式部官となり、大正6年8月10日に死去し(『昭和天皇実録』第二、318頁)、宮中で要職を占めることはなかった。
 一方、薩閥は、血脈を皇室に繋いでいた。昭和天皇皇后良子の母俔子は島津忠義(島津久光長男)の娘であり、大正12年良子が皇太子と婚約すると、良子の従叔母(母のいとこ)の治子(男爵島津珍彦[旧重富領主、島津久光四男]の娘で、母は島津斉彬の四女・典子)が、12年8月宮内省御用掛、10月東宮女官長になる。昭和2年2月治子の夫の鶴嶺高等女学校校長が死去し、後継の問題から、3月15日皇后女官長心得の辞表を奉呈した。そこで、「この日皇后宮女官長」に昇進させた上で「即日免官」となる(『昭和天皇実録』四、666頁)。昭和2年3月17日、木曜日、夕刻、天皇・皇后は、前皇后宮女官長島津治子に賜謁し、御紋付蒔絵手箱、置物、御紋付時計を賜い、「夕食の御相伴」を仰せ付ける(『昭和天皇実録』四、668頁)。しかし、治子は帰京せずに、大日本婦人連合会理事長に就任して「家庭教育の重要性」を説いていた頃まではよかったが、昭和初期に結成された「神政龍神会」に参加し、近い将来に天皇が崩御し、後継には高松宮をたてるべきなどと主張し、島津大逆事件を起こす。これは、軍事のみならず、宮中でも薩摩閥の凋落を示すものともいえる。
 A、藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫、昭和62年、30頁
 B、『昭和天皇実録』五、268頁
 C、『昭和天皇実録』五、596頁
 D、山本信次郎は暁星時代にフランス人神父からフランス語を「体得」し、皇太子渡欧にはフランス語通訳として随行し、帰国後も皇太子・天皇のフランス語教師を務め、大正11年海軍少将を経て、13年予備役に編入された。山本が皇太子のフランス語教師にならなければ、海軍大将の可能性もなくはなかったのであり、故に海軍軍務を経ずしての海軍少将昇任は総合的配慮の産物であった。
 昭和5年9月11日、天皇は、「英語通訳と外交事情に関する定例進講」を担当する「新任の宮内省御用掛白鳥敏夫(外務省情報部第二課長)、「フランス語通訳を担当する」「新任の宮内省御用掛」三谷隆信(外務大臣官房人事課長)に賜謁する(『昭和天皇実録』五、676頁)。外務省が、外交通訳を口実に海軍少将山本信次郎の実用的フランス語指導を事実上停止させたのであろう。9月16日、午後、天皇は、宮内省御用掛山本信次郎から『皇太子殿下海外御巡遊記』編纂の言上をうけているから(『昭和天皇実録』五、679頁)、山本はこの頃にフランス語教師から『皇太子殿下海外御巡遊記』編纂担当の宮内省御用掛になったのであろう。11月1日の天皇学習「日課表」ではフランス語を教えていた山本信次郎は完全に消えている(『昭和天皇実録』五、710頁)。11月26日にも、天皇は、『皇太子殿下海外御巡遊記』編纂に関し、宮内省御用掛山本信次郎に賜謁している(『昭和天皇実録』五、739頁)。山本は、以後も宮内省御用掛として天皇に仕え続け、「昭和12年に宮内省を退官するまで続いた」(皿木喜久『軍服の修道士』産経新聞出版、令和元年、158頁)のであった。
 E、『昭和天皇実録』五、505頁
 F、芳沢直之「昭和戦前期における宮内省御用掛と外交官」『外交史料館報』第30号、2017年3月 
 G、「日韓併合までの寺内総督の基礎工作」昭和9年12月19−20日『京城日報』。昭和5年10月14日には、豊明殿、千種ノ間で、天皇・皇后に「曝涼中の御物」を説明している(『昭和天皇実録』五、693頁)。

 なお、宮内省御用掛は、特定分野に造詣の深いスペシャリストであり、決して名誉職的職務ではなかった。それに対して、宮内省御用掛とやや紛らわしい宮中顧問官というのがあったが、これは既に軍歴・官歴などで要職を歴任した人物を受けいれる名誉職的性格が強かった。そして、昭和5年10月3日、金曜日、「午前十時十分、宮中顧問官に定例の謁を賜」(『昭和天皇実録』五、687頁)ているから、宮中顧問官には宮中に定例謁見日が設けられていた。その謁見者の人数は、昭和5年4月4日、金曜日午前十時過ぎには、「御学問所において宮中顧問官佐藤愛麿(元駐米大使)以下14名に定例の謁を賜」(『昭和天皇実録』五、567−8頁)っているから、10人台だったようだ。また、同年4月23日には、「故宮中顧問官本田幸介(元帝室林野局長官)葬送につき、侍従岡本愛祐を勅使」として差遣しているように(『昭和天皇実録』五、579頁)、宮内で要職をしめた官僚の葬送には勅使まで派遣している。

 では、この名誉職的な宮中顧問官と、同じく名誉職的な麝香間祗候、錦鶏間祗候とはいかなる関係にあったのであろうか。この金曜日の定例謁見日には、麝香間祗候、錦鶏間祗候の謁見も設定されていて、例えば、昭和5年5月2日、金曜日には、「定例により参内の麝香間祗候(華族・親任官・維新の功労者)侯爵山内豊景、錦鶏間祗候(勅任官を五年以上勤めた者、勲三等以上の者)浅田徳則(県知事、外務省総務長官、貴族院議員)ほか14名、京都在住華族総代として天機奉伺の伯爵山科家言にそれぞれ謁を賜」(『昭和天皇実録』五、586頁)っていた。宮中顧問官とは、この麝香間祗候、錦鶏間祗候に分類されない、それら以上の要職経験者だったようだ。11月1日には、土曜日、「本月より毎週木曜日の午前を拝謁定例日」とし、これに伴い、「従来隔月の第一金曜日に実施の宮中顧問官・麝香野間祗候・錦鶏間祗候の拝謁を自今隔月の第一木曜日に改め、宮中顧問官は偶数月、麝香野間祗候・錦鶏間祗候を奇数月とされ」ている(『昭和天皇実録』五、710頁)。

 宮中・府中相関と立憲君主 両者は基本的に相互補完しあうべきものであったが、時に両者の間には府中と宮中の対立などと称されるものが生じたりする事があったが、昭和天皇に関しては、基本的には、それは天皇判断を濃厚に反映する宮中による府中「暴走」抑制に基因する摩擦であった。府中側にすれば、宮中の専断・陰謀、強大化、天皇の籠絡などと批判する弊害の醸成とも映ることもあったが、天皇の主体的行動・判断が基本的要因であった。こうした「主体的」「理性的」天皇に対しては、神権的国体論構築には妨害だとすれば、理論的に天皇を差し替えればよいという出張をする者もでてくる事になる。しかし、昭和天皇は基本的には最終的な判断を主体的に下すのであり、故に天皇は責任を遡及されないなどとして、自分の名で裁可した事に無責任に甘んじることはなかった。天皇は自己の責任で府中の諸問題を指摘・批判するのであるから、自分に責任が無いなどとは些かかも思わなかった。よく天皇の戦争責任ということが言われるが、天皇は自分の名前で開戦詔勅を出した自分に戦争責任がないなどはいささかも考えなかった。昭和20年9月27日にマッカーサー会談で今次戦争の責任は総て自分にあると言い切っている(津島一夫訳『マッカーサー回顧記』)

 確かに元老西園寺公望やイギリス国王ジョージ五世(小泉信三『ジョオジ五世伝と帝室論』文芸春秋、1989年 )から「君臨すれども統治せず」という立憲王政のあり方を教えられ、基本的に自らで率先立法し統治することはしなかった。皇太子時代の訪欧の際、淳宮宛書簡で、英国で、「立憲君主制の、『君臨すれども統治せず』の伝統を国王ジョージ5世から直接、詳細に聞かされ」、「初めて身を以て英国の王室のあり方を知った」と書いている(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』文芸春秋、平成元年、90頁)。だが、裕仁の御名御璽で裁可する詔勅・勅命・法律などについて諮詢過程で疑問点があれば、それを問いだすことは必要と考えていたのである。だから、昭和4年2月15日、天皇は当番侍従に、「内閣よりの上奏書類御裁可の際、今後、各種の法案・勅令案等を奏請するに当たり、重要案件については、主務大臣が参内して説明し、その他の案件は説明書を添えて差し出すよう、内閣に申し伝えるべき旨」を沙汰したのである(『昭和天皇実録』第五、303頁)。

 張作霖爆殺事件と天皇 こうした天皇の府中牽制は相当な心労がともなった。例えば、昭和5年6月27日、天皇は御学問所で首相田中義一に謁見し、「張作霖爆殺事件に関し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨」の奏上を聞いた際、これは「これまでの説明(関東軍参謀河本大作の単独発意)とは大きく相違する」ことから、天皇は「強い語気にてその齟齬を詰問」し、「辞表提出の意を以て責任を明らかにすること」を求めた。田中が「弁明に及ぼう」とすると、天皇は「その必要はなし」とした。田中が退下すると、天皇は「書斎に侍従次長河井弥八、ついで内大臣牧野伸顕」を召し、「同問題につき御談話」になった。その後、天皇は、「心労のため椅子に凭れたまま居眠り」をして、予定のゴルフをしなかった(『昭和天皇実録』五、394ー5頁)。天皇は府中牽制で疲労困憊したのであった。

 このように、天皇は、上奏書類にめくら判をおすのではなく、しっかり吟味し判断したのである。天皇(及び側近)がこれには総合的な学術的判断能力が必要だと自覚すれば、総合的学問を志向せざるをえなかったのである。そして、これは、諸学研究者を「総動員」できた天皇だからこそ可能であった「個研総学」的学問営為といえなくもない。「個研総学」的先学は、実に意外な所にいたのである。

 ただし、天皇は、「宮中の陰謀」で田中を辞職に追い込んだという説が流布したこともあってか(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成7年)、田中の「慰労」にはかなり努めた。7月4日、前内閣慰労会を催し、正午、千種ノ間で、載仁親王との午餐に、「前内閣閣僚慰労の思召し」で「前内閣総理大臣男爵田中義一以下の前内閣閣僚ほか18名に御陪食を仰せ付け」、「御食事後の牡丹ノ間における賜茶の席においては、椅子にて円陣が設けられ、種々御談話」になった(『昭和天皇実録』五、399−400頁)。

 しかし、9月29日「払暁、前内閣総理大臣田中義一が死去」した。まず、天皇・皇后は、「その危篤に対し、・・病気御尋として侍医筧繁を差し遣わされ、葡萄酒を賜」った。死去後、午後3時、首相浜口から「前官礼遇陸軍大将男爵田中義一への位階追陞の件、勲章授賜の件につき奏請を受け」、「田中を正二位に叙し、旭日桐花大綬章」を授けた。10月1日には、侍従土屋正直を弔問勅使として「その邸に差し遣わされ」、3日には侍従山県有道を勅使として派遣し、沙汰書で政治的功績を称賛し(「事に当りて善く謀り、深慮を帷幕の中に運らし、機に臨み、善く断し、殊功を彊域[きょういき]の外に樹つ、荐[しき]りに陸軍の重責を負ひ、力を輔弼に竭[つく]し、遂に内閣の首班に列し、心を燮理[しょうり、良い統治]に致す」)、「祭資・幣帛・供物・花を賜」った。3日午後には、勅使侍従土屋正直を葬祭場(青山斎場)へ差遣した(『昭和天皇実録』五、435−6頁)。一年後の昭和5年9月29日には、天皇は、「故陸軍大将男爵田中義一 一周忌につき」として、わざわざ「香華料を下賜」していた(『昭和天皇実録』五、684頁)。

 天皇は、その後に宮中陰謀という言葉が流布し、或いは田中の死去に自分が一定度関与したことに懸念をもったか、「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成7年)という。

 総合的判断力の重要性 だが、内閣上奏への批判・反対と、首相辞任要請(要請とはいえ、強い語気で要請されれば、事実上の「強制」であったろう)とは異なるのであり(西園寺公望が天皇に結果を考慮すべきとしたのは、こういうことであろう)、これさえ弁えれば、国家の緊急事態に対応する総合的判断力の涵養は必要なものであり、内閣上奏への批判・説明要請は続けてもよかったのである。問題は語気鋭く要望するなどしなければいいのであり、そういう事情を理解してか、天皇は、まず宮中と府中の和合を図るための晩餐を数回催したり(『昭和天皇実録』五、442−461頁)、宮中節約改革の催促を和歌によって「緩やかに」おこなう工夫をしている(『昭和天皇実録』五、463頁)。そういう配慮をしつつ、天皇は、疑問点には相変わらず説明を求めたりすればよいのである。実際、昭和4年10月9日、御学問所で、「昨夜上奏書類を留め置かれた文部次官粟屋謙以下の文部省人事異動の件につき、侍従長鈴木貫太郎より奉答を受けられ」、「よって、本日午前中に文部大臣を召すことを命じ」、文部大臣小橋一太から「人事異動の理由につき奏上を受け」て、その上で、午後に「本件を御裁可」になっている(『昭和天皇実録』五、443頁)。


                          3 スポーツと観光 

 さらに、こうした学問営為に基づく総合判断を身体的に支えたものこそ各種運動や「観光」行為であった。

                          (1) 天皇とスポーツ 

 その諸運動とは、海軍東宮武官から教えられて気に入ったデッキゴルフに発するゴルフ(昭和3年時点でハンディは12)、馬上から閲兵する必要から覚えた乗馬、その他テニス、スキー(これについては再述)、水泳などであった。これらは、広大な土地や自然を擁する宮城、離宮、各地御用邸で日常的に、或いは「巧み」な誘導・触発で覚えたものであった。天皇が柔道、剣道を日常的なスポーツとしなかったのは、「剣道などの『武課を苦手』とした」事(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、131頁)、怪我のリスクもあった事などからであろう。この点、弟の淳宮(秩父宮)は、幼年学校では「よく勉強をつづけ」たのみならず、「剣道や柔道にも取り組み、しだいに腕をあげ」(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』文芸春秋、平成元年、70頁)ていた。同じ兄弟でも、淳宮は柔剣道が得意であった。

 天皇のスポーツは、激しい競技や筋トレ系ではなく、日常生活のなかですぐに従事できるスポーツになっていった。この適度な身体運動こそが、気分転換、身体鍛錬などを通して天皇の膨大な学問諸営為を支えていたのである。なお、「皇族は、相手と勝ち負けを争うことを禁じられていた」ので、「秩父宮自身は決して将棋をささなかった」(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』文芸春秋、平成元年、180頁)というが、必ずしもこれは厳密に決められていたのではなかったようだ。

 その証拠に、秩父宮は、「将棋を習いはじめてまもなくのこと」、「最も忘れられない事の一つに父上と将棋をさしたことがある」と回想している。「父上からの挑戦に、ずうずうしくも平手で応戦した」のである。「あまりにも立派な盤と駒に度肝をぬかれ」たというから、宮中での将棋は禁じられていたのではないようだ。秩父宮は「はじめての他流真剣試合」で「堅くなっている間に、駒をかたっぱしからとられ、残念さに涙がうかんでくる始末」で「あっけなく一敗地にまみれ」、「復習戦を挑む勇気も全くなくひきさがった」。秩父宮にとっては、「これが一生一度の親子でさした将棋であった」(秩父宮雍仁『皇族に生まれてー秩父宮随筆集』渡辺出版、平成17年、24頁)。しかも、秩父宮はラグビー、テニスなどをしていたから、皇族でも勝ち負けを争うスポーツをしている。この点は天皇も同様である。

 丸尾錦作の皇孫心身教育論 こうした天皇らのスポーツの実践原理は精神と身体の調和的発展論であった。

 既に明治43年裕仁9歳の時、1月8日三親王は修善寺菊屋旅館別邸楼上での「初等学科二年級第三学期始業式」で、皇孫御用育掛長丸尾錦作(学習院教授兼明宮[大正天皇]御用掛)は、「教育勅語の大要」を話し、「錦作を始め男女の侍臣は皆三殿下の御体育御心育に必要なる機関なれば、各自各機関の運転をあやまらず誠心誠意其職務の功顕を著大にすべし。三殿下には其侍臣の運用を錯誤せず、其職責のある処を尽さしめ給はらば、三殿下の御体力御智徳の御発揚は光大無量にして世界に光被するにいたらん」(『昭和天皇実録』第一、383−4頁)とした。当初から、侍臣らも裕仁ら三親王の心身教育に腐心していたのである。
 
 皇太子の運動競技論 こうした体育による心身教育論は皇太子時代の裕仁にも十分理解された。

 大正11年11月5日、皇太子は、新宿御苑でゴルフ競技をした後、午後東京帝大農学部運動場で開催の大日本体育協会主催の第十回全日本選手権陸上競技大会に行啓し、「運動競技が身体精神の陶冶に重大の関係あるは言ふを俟たず。近来此種の会合が益々隆盛を致し、多数の青年一場に会合し、礼譲を重じ、気節を尚び、相和して技を競ふは喜ぶべきことである」と述べた(『昭和天皇実録』第三、737頁)。

 皇太子のスポーツ論 大正12年にも、天皇裕仁の皇太子時代に、自らの総合的判断力を支えるスポーツについて興味深い意見を抱いていた。

 大正12年11月18日、日曜日、津田沼の陸軍騎兵学校から帰還後、夕餐で、東宮武官服部真彦、東宮侍従岡本愛祐、侍医高橋信とスポーツが話題となり、皇太子は自らのスポーツ娯楽・精神論を展開する。

 皇太子は、「スポーツの第一目的は体育にあれども、第二、第三の目的は娯楽及び精神修養にあり、されば娯楽なき体育はスポーツとしての価値少なく、また勝敗のみに心を奪われ精神修養を無視せるスポーツは、理想のスポーツにあらず。故に、自身はゴルフ又はテニスにおいては体育・娯楽を目的とするとともに、夙に精神修養・道徳修養をも目的として、これを行ないつつある」(『昭和天皇実録』第三、968頁)と語ったのである。皇太子は、スポーツを娯楽及び精神修養の合一のもとでの心身統一を実現するものと把握するのである。心身が調和的に作動していなければ、的確な判断はできないからであろう。

 スポーツ的新婚生活 大正13年正月に皇太子は結婚したが、福島県猪苗代町の翁島での新婚生活もスポーツに満ちていた。

 大正13年8月5日午後2時50分に、皇太子夫妻は翁島の高松宮邸(大正2年7月に大正天皇の第三皇子・宣仁親王によって創設、有栖川宮家から引継ぐ)に着く。以後、8月30日まで滞在して、皇太子夫妻は、「午前は御政務、午後は外出などにより日常を過ご」すが(『昭和天皇実録』第四、112頁)、その外出の少なからざる目的はスポーツであった。例えば、8月6日 午後、皇太子は御料馬初録で「大野原及び島狩村」に行き、皇太子妃は「東宮職御用掛西園寺八郎が馭者を務める馬車で後続」する。この前後、皇太子夫妻は、「一緒にピンポン、庭園御散策」などをするのである(『昭和天皇実録』第四、112頁)。最も多いスポーツは天皇の傾倒するゴルフであり、事前に島狩原に仮設ゴルフ場までつくられていた。

 8月7日、午後1時半、皇太子夫妻は馬車に乗り、皇太子「自ら手綱を取られ、島狩原に向か」う。到着後、「草地に仮設されたゴルフ場において、皇太子妃・東宮職御用掛西園寺八郎と二回コース」を回る(『昭和天皇実録』第四、113頁)。以後、8月11日、13日、16日、23日、25日には馬車で、28日には自動車で「島狩原の仮設ゴルフ場」に行き、西園寺八郎・甘露寺受長組、土屋正直・近藤信竹組、黒田長敬・近藤信竹組、黒田長敬・西園寺八郎組と対戦している(『昭和天皇実録』第四、114ー124頁)。

 次に多いのは、猪苗代湖でのボートや水泳である。8月8日には皇太子夫妻は猪苗代湖でモーターボートに乗艦し(『昭和天皇実録』第四、113頁)、8月9日には皇太子夫妻は夫妻で湖岸に出て「一緒にスカル」をする(『昭和天皇実録』第四、114頁)。他の二日間は乗馬と組み合わせるのである。つまり、8月10日には、乗馬で遠乗りし、ボートで青松浜に先着の子妃と昼食し(『昭和天皇実録』第四、114頁)、8月29日には、皇太子夫妻は、「浦安号(馬)にて小平潟」に行き、「スカル及び水泳」をするのである(『昭和天皇実録』第四、124頁)。

 この他にも、乗馬(8月12日、14日、初緑号)やテニス(8月17日、18日)も楽しんでいる。

 さらに、皇太子夫妻は猪苗代地方の名山、歴史の観光もしている。8月19日、「背広服にヘルメットの軽装」で磐梯山登山のため、まず自動車で土津神社に赴き、雍仁親王と少年団聯盟(大正11年後藤新平総長を中心に結成)の奉迎を受け、次に初緑号で磐梯山一合目まで行き、ここで下馬して、徒歩で雍仁親王、少年団聯盟に合流。昼食をはさみ、1時50分に登頂する。「山頂では日光の天皇・皇后、翁島の皇太子妃への親書を伝書鳩に託」した(『昭和天皇実録』第四、119頁)。8月20日には、皇太子夫妻は翁島より汽車で若松市に行き、10時17分に到着し、自動車で飯森山に行き、扈従の男爵山川健次郎(元白虎隊所属)から「戊辰戦争の回顧談等をお聞きになり」、山麓から宇賀神社の白虎隊士の木像、同隊士の墓などを見ている。

 心身教育の小括 大正15年までの心身教育について、学問所幹事小笠原長生が新聞記者に配布した「皇太子の御近状」において、@「大正元年7月30日、今上陛下の御践祚に因りて皇太子とな」り、同時に「陸海軍の武職に就かせられ」、現に近歩第一聯隊付の陸軍歩兵大尉、第一艦隊司令部付の海軍大尉であり、A「敬神崇祖」の念が強く、孝道に厚く、友悌の心が濃く、臣下への仁慈も深く、B学問効用の評価として、「事物に対する御研究心」が深く、精緻な観察、大局的な着眼をもち、剴切(適切、がいせつ)で「記憶の正確」「理解の明瞭」は「嘆称」するほどあり、C心身教育の効果として、(イ)「毎朝早起き」して」学問所に通い、退出後は自習、運動など「規律的の御日課」を実行し、夕刻以降は「心優かに」読書し、談話、遊技し、(ロ)冬季、夏季の転地先でも学科自習、遠乗、登山、体操、遊泳などで心身を鍛錬し、(ハ)地方行啓に際しては、山陵神社等に参拝し、「文武の実地」を見学し、「風俗民情」を臠(みそな)わし(見る)、F大正10年3月で修了する「文武に亘り特別の高等普通学科」は、君徳を涵養し、同時に「他日万機を知し召さる」基礎となり、(二)口演練習でも着想の卓絶、弁述の明晰において「拝聴者の感嘆」する所となり、(ホ)肉体的にも勇健で「筋骨頗る逞し」くなったとする(『昭和天皇実録』第四、450−1頁)。

                             (2) 天皇と観光 

 天皇の観光行為 天皇の観光行為とは、、未だ表立って打ち出したものではないが、天皇及びその家族は事実上日光(避暑地)、葉山(避寒地)などの観光地で、登山、散策、乗馬、水泳をしたり、夕食後の家族団欒の映画会(これは東京の宮城でもなされた)で内外観光地の景色などを見て楽しんでいた。

 天皇らは「観光」行為を理解し、興味を持っていて、事実上の「観光」行為をして明日の精神的英気を涵養していた。天皇は決して表立って国内観光、国際観光の振興などの勅旨、詔勅などをだすことはしなかったが、事実上生活の一部に自然観光を取り入れ、精神的充足を実現し、外国人の日本観光にも留意していたのである。確かに当時の軍事優先の国際状況に影響されて、軍部が戦時での産業序列においてホテル業を下位に位置づけるような状況下では、日銀時代の高橋是清が外貨獲得手段として外国人観光客の誘致をめざす国際観光政策を国是とすべきだという意見を提起しても、それはまだまだ例外的な主張にとどまり、天皇は表立って国際観光による国際親善、国際平和などを標榜できなかったのである。天皇は、下から上がってくる諮詢などを時には注文を付けて裁可するにとどまり、自ら立案して裁可することは立憲君主の域を逸脱すると考えていたからである。西園寺公望、ジョージ五世からはそう教えられてきたのである。ただし、天皇に言わせれば、以後、この立憲君主の原則を二回破っており、一つは二・二六事件(昭和11年2月26日)の決起部隊を反乱軍として討伐命令をだすとしたことであり、もう一つは東京大空襲(昭和20年3月10日)に対応した終戦の決断である。いずれも、放置すれば深刻事態を招きかねないという緊急事態に即応するものであった。なお、天皇の田中義一首相辞任要請は内閣上奏への疑問、批判とはレベルが異なるから、これも立憲君主の「越権行為」に含めれば、天皇は立憲君主の越権行為を三回したことになるが、この首相辞任要請には緊急性があったか否かという点では検討余地はあろう。

 しかし、外国人向けの日本観光映画に生物学者らしい意見は述べていたのである。まず、当時の観光宣伝映画の展開から瞥見してみよう。

 観光宣伝映画の展開 鉄道省国際観光局の伝統的な観光宣伝媒体としては、まずは印刷物(本年2月以降作成したものとして、英文『茶の湯』1万部、英文『能』1万部、英文『桜』1万部、スペイン語『エル・ハポン』5万部、英文『ヴィジット・ジャパン』30万部、英文『避暑地案内』1万部、英文『美術史綱要』、英文『観光土産品案内』6千部、風景絵葉書12万部)があった(国際観光局編『国際観光事業経過概要』昭和9年10月、14−5頁)。だが、昭和期には、それ以上の宣伝媒体効果を持つものとして映画が活用されだしたのである。

 昭和4年頃には、「諸官庁に於ける映画の利用熱にともない、民間の事業会社にても映画を利用する傾向が盛んになり」、日本郵船会社でも海外へ紹介する映画「日本の名所風物案内」を製作した。これは、「大東京は勿論、大阪横浜等の主要都市、並に日光、京都、奈良、長崎、雲仙岳の名所を撮り、同時に角力、柔道等の国技、茶の湯、生花或は雛祭り、又は下駄をはいた女、日本髷を結った女など、日本特有のありとあるあゆる風俗ををさめたもので、栗島すみ子、田中絹代、東栄子など出演してい」(昭和4年10月31日付『読売新聞』)た。

 昭和9年頃には、鉄道省国際観光局は、「映画時代の出現と共に観光宣伝上、映画の利用は益々熾(さかん)に向って居りますが、之等の趨勢に順応し、且つは近来次第に増加する当局映画の需要に応ずるため孜(つと)めて多数の映画を準備し、在外公館、当局在外宣伝事務所等に備付け、各方面の要望を満たす様努力致して居るのでありまして、映画の利用は資金の許す限り大規模に実施致したいと考ふるのであります」(国際観光局編『国際観光事業経過概要』18頁)とするのである。

 鉄道省国際観光局の日本紹介映画は、当時の国際観光機運と上記官庁映画作成熱が合致して生まれたものであった。しかし、日米関係が「緊張」してゆくと、多額資金を投入した鉄道省「日本紹介映画」のアメリカでの放映は摩擦を生じがちになったようだ。シカゴ万国博覧会(昭和9年5月26日ー11月12日)では、「市当局が反日的態度から最初博覧会の当事者が日本側に対し、会場正面入口は日本館を建築するとの約束をして置きながら、後に至って武藤顕領事や杉原委員長等の日本側の抗議を無視して、通用門の付近に日本館を持って行ったこと」などが起き、確かに「博覧会参加の効果は確と現はれて既に各方面から日本との取引に関して相当に交渉を受けている」が、「観光局の手になる日本紹介トーキー映画の映写されなかった」のであり、「鉄道省が巨額な費用を投じて作製した映画も折角の好機を逸してしまった」(昭和8年6月17日付『読売新聞』「シカゴ世界博」)のであった。

 因みに、昭和9年8月当時の観光宣伝映画としては19本もあり、それらの内訳は、@35粍無声映画として8本ー『日本の四季』二巻(16粍もあり)、『桜 咲く日本』二巻(一巻もの、16粍もある)、『時代祭』二巻(一巻)、『瀬戸内海』二巻(一巻、16粍もあり)、『日光』一巻(16粍もあり)、『九州横断』二巻(16粍もあり)、『夏の雲仙』一巻、『大阪』二巻(16粍もあり)、A35粍トーキー映画として6本ー『日本の四季』八巻、『改定日本の四季』四巻(16粍もあり)、『日本の祭』一巻(16粍もあり)、『東踊り』一巻、『奈良と京都』三巻(16粍もあり)、『大東京』四巻、B16粍無声映画のみとして5本ー『比島実業団日光旅行』二巻、『ABM満州訪問』二巻、『絹』、『米の耕作』一巻、『日本学生会議』一巻である(国際観光局編『国際観光事業経過概要』昭和9年10月、19−22頁)。

 昭和12年にも外務省国際映画協会が日本紹介映画『現代の日本』全十巻を製作し、フランスで活躍していた藤田嗣治(大正10年サロン・ドートンヌの審査員、大正14年レジオン・ドヌール五等勲章)も製作者の一人に選定された。しかし、「藤田嗣治画伯監督の第二部『風俗日本』五巻」は「反対派と目される外務省、内務省関係」を中心に「最も非難の矢面に立」つことになった。そこで、4月14日、「支持派である美術批評家協会」は「海上ビル内東和商事の試写室に、大宅壮一、三木清、栗原信一、飯島正氏ら文壇、美術、映画界等から多数の文化人を招待」して意見を問うた結果、「大体よかろうぢゃないかといふ評価が大部分を占めた」。さらに、23日午後1時から築地小劇場で『現代の日本』再検討公開試写会を開き、この日はとくに当の藤田画伯に乞うて映画製作者としての立場からその説明を聞」き、「同映画の輸出是か?非か?の厳正な投票」を行うとしている(昭和12年4月15日付『東京朝日新聞』)。日本紹介映画は、国際的に緊張してくると、親日国では歓迎されても(昭和13年4月6日ポーランドでは「日波協会主催の日本紹介映画の夕が催され人気を集めた」[昭和13年4月8日付東京朝日新聞「日波(日本、ポーランド)親善の夕べ」])、そうではない国々ではもはや単純な日本紹介映画とはいえなくなってきたようだ。こうした国際的緊張を反映して、製作側の日本でも芸術重視派と国威発揚重視当局との間で齟齬が生じ始めていたのである。

 2015年に東京国立近代美術館で「MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示」が開催され、筆者もこれを観覧した。この五巻のうち、『現代日本 子供篇』(昭和10年製作、8分38秒)のみが東京国立近代美術館に所蔵され、これも映写室で放映された。しかし、戦争画の印象が強すぎて、映画については余り記憶にない。『現代日本 子供篇』の「ロケ地は愛媛県松山市」で、「散髪屋、紙芝居、祭り、遊びなどの映像が、少ないセリフとともに淡々と流れ」ていたが、これは「子供たちが『貧しげで国辱的』と批判を受け」たのである(青柳健二「藤田嗣治の戦争絵画と映画『現代日本 子供篇』」Aoyagi Kenji Photo Blog)。笹木繁男「視点 藤田嗣治監督の映画『風俗日本』」『美術の窓 』25巻8号、2006年7月も参照。因みに、藤田の父嗣章は森林太郎(鴎外)の次の軍医総監、義兄中野緑野も陸軍軍医総監、兄嗣雄は陸軍省参事官など、「親軍的」家族環境であった、そういう事もあってか、昭和13年10月には、藤田は「海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍」(東京文化財研究所作成の藤田嗣治年譜)したり、陸軍の戦争画(「アッツ島玉砕」など)などを描いていた。

 天皇への最初の観光「諮詢」 以上の如き日本紹介映画の展開途上の昭和5年5月5日、夕餐後、天皇は、皇后、長女成子と、宮城「奥内謁見所」で、「海軍省提出の映画『撃滅』、並びに鉄道省製作の日本紹介映画を御覧にな」(『昭和天皇実録』五、587頁)った。

 これは、いつもの夕食後の家族団欒・側近慰労的映画鑑賞とはやや違っていた。例えば、直近の映画鑑賞会を二つみてみよう。一つは、昭和5年2月9日、日曜日、葉山御用邸で、天皇、皇后、成子の晩餐会に、宮相一木喜徳郎以下供奉高等官19人に陪食させ、その食後に催した映画会である。ここでは、「ピンポンの紅白試合」をした後に、「供奉員慰労のため、ニュースやツェッペリン飛行船を写した映画等の拝観を許」すというものだった(『昭和天皇実録』五、533頁)。

 次は、2月24日、月曜日、葉山御用邸で、夕刻に催されたトーキー映画会である。夕餐後、午後7−11時半まで、天皇、皇后、成子は、側近高等官、供奉判任官らを陪覧させて、「パラマウントニュースや天然色映画『リオ・リタ』(テキサス州のフレモント牧場地方での盗賊団制圧の絡んだ恋愛映画)」などの「トーキー映画を御覧にな」(『昭和天皇実録』五、540−1頁)ったのである。

 所が、5月5日映画会では側近らの陪覧は記載されていない。常侍侍従らを除いて、天皇一家だけで見たことになる。それは、海軍省、鉄道省の宣伝映画への天皇意見を暗々裏に求めるものではなかったからではないかと推測される。さらに、タイトルだけみると、戦争(海軍省提出「撃滅」)と平和(鉄道省作「日本紹介」)という人類史上の「普遍的なテーマ」のような組み合せである。当時の日本が直面しつつある深い亀裂を反映しているかである。今までの天皇家映画会とは明らかに異なっていた。

 前者の海軍省提出「撃滅」は、当時の日露戦争25周年の日露戦争ブームの中で海軍省後援のもとに日活により製作されたものである(「日活データベース」)。小笠原長生海軍中将の戦史著書『撃滅』(サブタイトルが日本海海戦秘史で、昭和5年に実業之日本社から刊行されている)が45版に及ぶ大人気となっていて、これがこの映画の原作である。昭和5年には、恐慌で「重苦しい社会情勢の打破を願う国民と、マスコミが企画した日露戦争勝利25周年」の記念事業とが結びつき、「日露戦争を題材としたパノラマ展示、記念式典のほか、新聞紙上の座談会や特集記事、雑誌の特集号、記念出版などは、いずれも非常な人気となっ」ていたのである(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、219頁)。

 後者の日本紹介映画では、皇后、成子らと団欒裡にそれを鑑賞したであろう。だが、翌6日朝に、天皇は、「鉄道省製作映画の中で観衆が桜の花を折り弄ぶ場面について、悪習を外国に発表するような観があるとの懸念をお述べにな」(『昭和天皇実録』五、』587頁)ったのである。確かに、当時の下記の二つの日本紹介映画では、枝を折る場面こそないが、着物姿の女性が桜花をもった場面が確認される。天皇は、こうした外国人対象の日本観光策に、生物学者らしい意見を初めて開陳した事になるのである。それがとり入れられて、日本紹介映画からこの部分が削除されたか、或いは訂正されたかは、今の所、確認しようがないが、期せずして、天皇は日本観光政策に初めて意見を表明することになったということは深く留意してよいであろう。天皇は毎日各新聞紙を読んでいたから、大正期以降に展開する内外観光の推移については概ね知っていたはずである。これは、そういう長年の天皇の観光知識の蓄積を踏まえて、観光の意義、重要性を弁えた上での意見ということになろう。

 (「戦前の日本」 https://www.youtube.com/watch?v=cObNYVvVB64&t=103s
   「昭和初期の映像」 https://www.youtube.com/watch?v=6R_Y3t3A2po&list=PLWB9uDOJE_M4VDD85QQPgd6xK6wi0y6A_&index=8

 同時に、そこには、生物学者としての天皇が、生命誕生、生存競争などの自然循環過程での生命の重要性に留意して、平和重視の基本的態度から、日本人の桜花を折って採取する行為を悪習と批判したのであり、それは張作霖爆殺、重臣暗殺という「殺人行為」に「激怒」していたという側面と連続性があったかもしれない。しかも、張作霖からは、昭和2年9月10日天皇の内親王(久宮祐子内親王、翌昭和3年3月8日死去)誕生に際し、「外務大臣を経て祝意が寄せられ」(『昭和天皇実録』第四、767頁)ていた。二・二六事件で暗殺された大蔵大臣高橋是清、内大臣齋藤実、重傷を負った侍従長鈴木貫太郎は、言うまでも無く天皇の股肱の忠臣でもあった。

 なお、 『昭和天皇実録』で皇室映画会で初めて「観光映画」というタイトルの付いた鉄道省作成の映画を見るのは、これから約10年後の昭和14年11月6日のことである。つまり、この日、天皇、皇后、成子内親王は奥内謁見所で、「鉄道省観光映画」、「葉山における皇太子、厚子内親王の動静に関する映画」等を見るのである(『昭和天皇実録』七、450頁)。漸く「観光映画」というジャンルも皇室でも市民権を得たかであったが、16年日米戦争で平和を前提とする観光は全面停止となる。

 天皇とスキー この昭和5年には鉄道省は各スキー場の紹介映画『銀界征服』も製作していて、年末12月28日に、宮城の皇后御進講室で、天皇、皇后、皇太后、成子は、「驢馬(ろば)」(線画による教育映画)、「神戸港沖の観艦式」、「岡山における御親閲」など「各種活動写真」とともにこれを見ている(『昭和天皇実録』五、755頁)。これは、鉄道省の国際観光局が、中国、東南アジアの欧米人を日本スキー場に誘致しようとして製作されたものであろうか。天皇は、既に冬に宮城、御所の積雪を利用してスキーをした経験はあり、昭和5年2月2日にも吹上御苑ゴルフ場の「二番打ち出しの裏面にある斜面」でスキーをしているから(『昭和天皇実録』五、529頁)、この映画を興味深く見たことであろう。昭和6年3月5日には、天皇は、午後2時、御学問所で、約二時間、東京帝大教授川河本禎助(全日本学生スキー競技連盟会長)から講話「青年と冬季運動」を聞いている(『昭和天皇実録』五、783頁)。

 こうした鉄道省や天皇のスキーへの関心は、昭和初年から内外でスキーが注目されだしたことをも背景にしていよう。例えば、昭和3年2月に日本は第2回冬季オリンピックのサンモリッツ(スイス)大会に初参加し、第1回全日本学生スキー選手権大会が青森県大鰐で開催され、昭和4年1月には大倉喜七郎男爵がノルウェー・スキー連盟副会長オラク・ヘルセット中尉一行を招聘し、昭和5年2月には第11回国際スキー会議に木原均らを派遣し、昭和5年3月には玉川学園の招聘によりハンネス・シュナイダーが来日し、全国各地でスキー指導行っていて、日本でもスポーツとしてのスキーが普及しはじめ、昭和6年頃からは文部省もスキー指導にカを入れるようになり指導者養成講習会が開かれていた(鈴木正「スキー発達についての研究」『一橋大学研究年報』自然科学研究9など)。
                           
                         4 天皇の平和重視策と終戦 

 
 以上の如き、天皇の意志決定過程、そこにおける生命、さらには平和重視(天皇の平和主義重視の方針については、ロンドン軍縮条約の積極的評価などからも確認できる)という観点から、天皇の終戦決断過程の複雑微妙な経緯や、まだまだ観光が天皇の言葉として表現されなかった理由なども確認されよう。以下、簡単に触れておこう。

 立憲君主天皇の「越権行為」 陸軍が最終的な決戦作戦としていた本土決戦は数千万人の国民の犠牲をともなうものであり、天皇には到底許容できないものであり、これが終戦詔勅の決断を促したであろう。それに対して、当時の正貨不足などでは、まだまだ天皇に「国際観光振興を国是とする」詔勅を出さしめるほどの緊急事態ではなかったということになろう。天皇が観光の意義を理解し、実践していたとしても、それを公私両面で表明するほどには、観光は重要性を帯びてはいなかったということである。ただし、観光事業に従事する人間が増加して、その国民経済的比重が大きくなってくれば、その浮沈は緊急事態性の度合いを大きくしてくるであろう。

 こういう事を踏まえれば、昭和天皇の立憲君主としての主要な「越権行為」が三つ(田中義一内閣倒閣命令、二・二六反乱軍討伐命令、終戦「命令」)にとどまったのは、故なきことではないのである。しかし、実際には作戦上の命令などは少なくなかったが。

 終戦「命令」の複雑微妙性 さらに、こういう「上からの」詔勅の複雑微妙な影響の大きさを考える一例として、後者の終戦決断には大きな別の「悲劇」を随伴したことを指摘しておこう。

 天皇は、終戦を決断し数千万の国民を本土決戦から救済したが、終戦実現方法まで留意して、積極的に終戦を推進できなかったのである。天皇は、各種宮廷行事に各国外交団を招待したり、各国王族・皇族・大統領などとの交流を欠かさず、とくに永世中立国のスウェ―デン王室、スイスや、ローマ法王とも欧州の平和機関として緊密な関係を維持していた。しかし、天皇は、終戦決断を提起した事を立憲君主の越権行為とみて、かつ継戦論の軍部のクーデターによる天皇幽囚或いは交替を懸念して、その和平をいかに実現するかまで具体的に指示することを躊躇して、皇室とも長年の交流のあるスウェーデン、スイス、ローマ法王のルートによる和平工作を十分活かすことはできなかったのである。天皇が講和を主導しない「ゆっくり」とした講和交渉過程においてさえ、8月14ー15日に和平阻止の軍事クーデターが起きていたこと(しかも、決起前に継戦派は皇居乾門で三笠宮を待ち伏せ継戦主導を要請していた)を考慮すると、天皇の講和意志が軍部内部で咀嚼不充分なままで早期に講和しようとすれば、もっと大きな軍事クーデターを誘発させて、天皇幽閉、継戦持続、破滅的敗戦となった可能性が大きいのである。天皇「主導」の講和交渉過程は、軍部内情勢との兼ね合いで複雑微妙なものたらざるをえなかったのである。

 この結果、こうした天皇が長年築き上げてきた国際平和網が、天皇の終戦決断以後の推移に好影響を与えることにはならなかった。確かに、スウェ―デン、スイスを介した終戦工作もあったのだが、実際には外交当局や軍部(統制派)はソ連仲介の終戦工作に重点的に従事して、周知の通り原爆投下(昭和20年8月6日)、ソ連参戦(昭和20年8月9日)という「最悪」結果を招いてしまったのであった。これで天皇は終戦の迅速化を画策するが、総合的に見れば、天皇の「緊急事態即応」的詔勅には、実に複雑微妙な諸問題を随伴していたのである。総合的学問を修めていた天皇もこういう事は分かっていたから、西園寺公望、ジョージ五世の立憲君主統治原則を極力固持しようとしていたのである。


                              小 括

 第一に、戦争・平和などの昭和天皇の意志決定過程において、天皇の学問は大いに寄与していたということである。この詳細は別稿を予定している。

 天皇は、「陸海軍ヲ統帥」し(第11条)、「陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定」(第12条)め、「戦ヲ宣シ和ヲ講シ」(第13条)と、「戦争と平和」双方の権限をもっていたが、戦争面での天皇と皇族において大きな相違があった。それは、天皇は、戦争遂行作戦の作成に従事しなかったが、例えば秩父宮が陸軍士官学校・陸軍大学校に勅令で入学し、参謀本部で対米作戦、対ソ作戦を立案し、その遂行に関与したということである(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』文芸春秋、平成元年、201頁以下)。

 しかも、直宮をはじめとする皇族を陸軍士官学校・陸軍大学校、海軍兵学校・海軍大学校に入学させ、各部隊に配属するということは、社会や政策に不満を持つ将校らに「利用」されるリスクを持っていた。彼らが皇族に接近し、事を起す場合に皇族の「理解」を得ているなどと吹聴するリスクがあったのである。この点、天皇が陸軍士官学校・陸軍大学校、海軍兵学校・海軍大学校に入学しなかったことは、天皇を「事件」に巻き込む可能性を遮断していたことを意味する。

 この結果、大正8年3月末『時事新報』で、「皇太子が人前でほとんどおしゃべりにならない。その原因は、御学問所のような特別な小社会で暮らしているから、どうしても軟弱になりやすく尚武の気風を欠いている」という批判記事がでたように(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、140頁)、閉鎖的教育に批判がないでもなかったが、東宮学問所総裁東郷平八郎らは学問所体制を断固維持したのであった。東郷平八郎の評価は、日本海海戦勝利以上に、総裁として東宮学問所に日々通って、こうした東宮学問所体制を7年間維持したことにもなされるべきかもしれない。

 こうして、天皇は、総合的観点から絶えず「戦争と平和」を考慮する位置にあって、二・二六事件に山県有朋のような断固たる態度で臨んだり、日米戦争の終結にも慎重に踏み出すこともできたのである。

 第二に、天皇の総合的判断力と「それを適切に作動する観光・スポーツに基因する心身の成長」の連関が密接に連関していたということである。この詳細は別稿を予定している。

 第三に、明治維新を遂行し以後の政治・軍事を指導していった「藩閥」の成立・展開が、平和を脅かす戦争要因として大きく作用していたということである。藩閥は、その解体過程においてすら藩閥に代わる数多の軍閥を生みだし、軍閥は軍部大臣現役武官制と統帥権を利用して、大きく「戦争遂行」要因の作用をしたのである。

 戦前には軍部大臣現役武官制と統帥権に制約されて「戦争と平和」において平和が非常に脆かった。天皇は最高権限者として「戦争と平和」の最高意思決定者であったが、立憲君主でもあり、軍事に関しては、軍政面で陸海軍大臣の輔弼を受け、軍令面で参謀総長・。軍令部総長の輔翼を受けるという憲法規定に制約されていた。天皇は重要事態においては最高権限者として意思決定できたが、常時これが出来たわけではなく、軍部もこれを知っていて、内外情勢によって軍部がこの立憲君主の曖昧さを「悪用」するリスクがあった。それに比べて、戦後においては自衛隊の文官統制、憲法による戦争抛棄規定によって「戦争と平和」において平和の優勢さ・頑強さが維持されてきた事が確認される。今後は、こうした「日本の平和構造」を必要修正を施した上で、一つの「先例」として全世界に普及させ、各国の「生存競争」の調整手段としての軍事力を根本的に絶つことに些かでも寄与することがあれば幸いであろう。

 以前、ある研究所で元新聞論説委員の論客安原和雄氏と、日本軍の精強さに怖気づいた米軍マッカーサーらが武装放棄協定を日本国憲法に「不当」に強要した事を議論したことがあったが、その時は本稿のような総合的研究がなかったから、憲法改正による自主憲法制定もまた正しい選択肢の一つと思っていたが、本論のような研究を経て思う事は、憲法九条の歴史的意義は小さくないということである。


 内外観光産業とは、こうした「戦争と平和」への考察を踏まえるならば、世界平和を経済的・文化的に支える重要な意義をもつものだといえよう。にも拘らず、観光論・観光業が諸列強間の軍事的緊張下では抑制され、正貨を確保する意義を指摘されつつも、戦争下では軽視・無視されるが、平和のもとでは基幹製造業を補完される産業として重視されだし、戦争と平和のはざまで絶えず翻弄されるのである。そうした象徴的事例として、下記補注で秩父宮の軍務と観光論を瞥見しておこう。まだ昭和天皇の観光資料は発見されないが、今回秩父宮の観光資料が発見されたので、その紹介も兼ねた補注である。



                        補注ー 「秩父宮の軍務と観光論」

                       @ 戦前の秩父宮の軍務・スポーツ

 秩父宮の軍務 秩父宮は、大正9年3月23日17歳で中央幼年学校を卒業し、陸士34期2年間(18−9歳[大正9年10月―11年7月])や「卒業後の歩三での少尉、中尉生活の三年間」([大正11年10月−14年])を過ごすが、秩父宮は歩三はが「他の連隊の範となるように・・訓練に力を入れ」、「怠惰と制裁を嫌」い、「率先して兵士たちの先頭」を歩いた。皇族ながら、体力を使う積極的な指揮官であった。大正末期に「宇垣軍縮で陸軍の四個師団削減もあり、反軍事ムードが国内を覆」ってくると、昭和2年から3年、秩父宮は「帝国陸軍軍人として模範的な皇族」として「陸軍による国民への親陸軍キャンペーン」に利用され、それに乗った「秩父宮に関する著作」が数多く出された(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』84−155頁)。国民的人気のある皇族軍人となった。

 昭和3年6月秩父宮婚約発表当時は、秩父宮は「英国帰りのスマートなプリンス」、「陸軍軍人としての剛直さと庶民的な振舞いを備えたプリンス」、「スポーツ好きで誰にも好印象を与えるプリンス」」などとして「新聞や雑誌(写真雑誌[『アサヒグラフ』『毎日グラフ』]、月刊誌『婦人倶楽部』)ではヒーロー扱いされ」た。ニッポノホンからは北原白秋作曲、山田耕作作詞「童謡合唱 秩父の宮さま/村の暁」が販売され、ラジオで流された。ここでは日本アルプスの登山、歩兵第三連隊の行軍が歌われ、「みんなの宮さま タラララッタッタッタ」と軽快に歌われる((保阪正康『秩父宮と昭和天皇』153−6頁)。童謡の主人公までになったのである。その他、国会図書館で検索するだけでも、通俗教育普及会編『秩父宮殿下と節子姫』通俗教育普及会, 昭和3年、姫野寅之助『我等の秩父宮殿下』大日本皇道會、昭和3年、歩兵第三聯隊将校集会所 編『瞻戴 : 秩父宮殿下御高徳集』兵書刊行会、昭和5年、野砲兵第五聯隊『秩父宮殿下隊附御勤務間の御動静に就きて』昭和5年、パンフレット『秩父宮殿下の御近状』上山万長堂出版部、昭和7年などが確認される。

 昭和7年9月、秩父宮は「歩三を離れて参謀本部第一部(作戦部)第二課(作戦課)」に移り、昭和10年には、秩父宮は陸軍の「対米作戦計画を立案」し、実際の「太平洋戦争初期のルソン島攻略は、秩父宮のこの案が土台になっていた」(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』204頁)。

 秩父宮のスポーツ 軍務の傍ら、秩父宮はスポーツに熱中した。陸士校長の鈴木孝雄は、軍務の体力涵養にもなるから、スポーツ好きの秩父宮に配慮して「在学中にスポーツの時間を増やし、毎日午後三時から五時までは、自由時間とし、ラグビー、フットボール、野球(サードで四番)、バスケットボールなどのほか剣道、柔道、器械体操と自由に楽しませた」(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』117頁)のであった。

 陸軍士官となってからも、秩父宮は、「学習院時代の同級生、東京帝大、慶応大の山岳部員とも交わり、登山やスキーにしだいに興味をもつようにな」り、「秩父宮の登山やスキー旅行が新聞に報じられ」た。学習院中等科の同級生細川護貞は、「父の護立侯爵の赤倉温泉の別荘」に秩父宮、高松宮らを招き、スキーをした。歩三の隊付将校時代には、この赤倉細川別荘には、細川護立、二荒芳徳、槙有恒、板倉勝宜、渡辺八郎、鹿子木員信(海軍機関学校卒、日露戦争従軍後、京都帝大入学。インド独立運動支援、慶応教授)などのスキー、登山仲間が集まった(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』118−120頁)。

 大正14年7月7日、秩父宮はロンドンに到着し、英国留学中に「スポーツを単に運動競技と解すべきではない」とし、英国では「スポーツが完全に社会生活のうちに溶け込んで」いて「高揚されたスポーツマン・シップはどのような角度から見ても、英国人の最もよい気質をはぐくんでいる」とした。秩父宮は、英国で「スポーツの楽しみ方も覚え」、「英国到着して一年後」には、槙有恒(学習院時代からの友人)、松方三郎(同盟通信記者)、渡辺八郎、地元登山家(ウエストン紹介)とあの有名なマッターホルンの登頂に成功した(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』112−123頁)。

 昭和3年頃には、「スポーツは、まだ旧制高校生、大学生、それに有閑階級の御曹子のものであり、その語の響にはあこがれという語も代置できたが、それが秩父宮によって象徴され」、「秩父宮のスポーツ好きは、軍人として極めて模範的に生きているというエピソードを交えてしばしば大きな記事となった」(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』153頁)。

 昭和3年の極東オリンピック大会(東京神宮運動場)では、「まっ白な洒落た背広に身を包んで、人びとの目をひきつけ」た。ラグビー見物も趣味で、「各大学の対抗戦には必ずといっていいほど姿をあらわした」(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』153−4頁)。

 療養 秩父宮は、「皇族と軍人とスポーツマンの一人三役で、想像以上のお忙しさ」(秩父宮勢津子「宮さまと私の昭和史」昭和48年1月[秩父宮雍仁『皇族に生まれてー秩父宮随筆集』213頁])で、相当体を酷使して、昭和15年に肺結核と診断され、16年から静岡県御殿場で療養生活を送ることになった。なお、この三つのうち、軍務が最も過酷であり、陸大同期生(昭和3年12月24日)の林重貞は、自らも過労で結核となったように、「陸大では過労から結核になる者も多」かったから、「後に秩父宮が結核になったのは、この過労のせい」と推測していた(保阪正康『秩父宮と昭和天皇』164頁)。

 秩父宮は、「遺言」で、「我民族として国家として歴史上未曽有の難局と困苦の間」にあった昭和15年から「静かに療養の生活を送れたことは、・・余りにも恵まれ過ぎていたと云ふの外はない」(秩父宮雍仁『皇族に生まれてー秩父宮随筆集』208頁)とする。

                     A 戦後の秩父宮の観光論 

 かかる療養中の秩父宮が、大きく変容する戦後の昭和24年、体調の良い時に、戦前の観光地でのスキー、登山などの経験を踏まえて、「観光論」(秩父宮雍仁『皇族に生まれてー秩父宮随筆集』渡辺出版、平成17年、以下、書名は省略)を発表するのである。

 これは、@陸軍参謀としての作戦立案・実行力も多少は発揮されているかの観光論であり、A内地は四国を除いて「随分歩」き、「裏日本」は「全部鉄道に沿って大体歩き」、二回欧州(イギリス、スイス、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ)を旅行し、欧州では「なまじっか案内人などがいるよりも、ガイド・ブックを持ちぶらぶら歩いた方が、はるかにいい場合があります」(秩父宮雍仁『皇族に生まれてUー秩父宮談話集』渡辺出版、平成20年、75ー85頁)という内外「観光」経験をも踏まえたものである。

 まず、秩父宮は「観光という言葉も流行語の一つである」が、「現在のように観光という文字が漠然とした意味で乱用されていると、とんでもない観光国日本が生まれる」という「恐れが多分にある」(秩父宮雍仁『皇族に生まれて』平成17年、114頁[以下、書名は省略])と指摘する。

 国際観光 そこで、彼は観光を定義する。観光は「自然の風光を愛でるの意」であるから、「日本人の国内旅行ということも大いに考えるべきものだが、国の立場からすれば、(国内旅行は)付随的に取り扱っても良い」のであり、「異国の天然の美を眺め、その住民のエキゾティックな生活雰囲気にひたること」とし、故に「この観光という字は、外国人のトゥーリストを対象とするときに一番ぴったりとする」とするのである(114頁)。

 まだ、日本では豊かな中産階級の登場が成熟していなかったので、国際観光客は富裕層、国内「観光客」は一般大衆という相違があったのであろう。「外国のトゥーリストのためのいわゆる観光施設」は「名論卓説が限りなく述べられている」(ここから戦前からの国際観光論を知っていることが確認される)として省略するとしつつも、@国際観光国日本たるべき「第一の要素」は「日本人が社会人としてさらにさらに高い品性をもつ」ことであり、「決して卑屈にならないこと」だとし、A国家は「速やかに理想的観光施設をなした国立公園を建設すること」と主張する(115−6頁)。国際観光国日本を構築するには、品性ある社会人を育成することが必要だとして、青少年教育を中心とする「国内」観光論が展開される。

 国立公園については、「総花式に、全国いたるところに中途半端な国立を造る」のではなく、例えば「富士山を中心とする三浦半島から箱根、伊豆半島を経て、清水港に至る海岸線から甲府盆地を含む一帯の地域を、伊豆半島乃至は七島を包含するもの」とする(116頁)。

 国内Excursion,Holiday making 次いで、秩父宮は国内「観光」に言及する。

 日本の花見遊山、紅葉狩は、「飲むこと食うことが第一となり、果ては花を散らし枝を折り、酔った挙句は喧嘩は珍しくなく、ついには生命を失うものさえ出る始末である」とする。本論で見たように、天皇も日本紹介の映画で桜の枝を折る事を批判していた。従って、「この近代的センスをもたない観光観念の上に観光国の建設を論じてみたところで、それはとうてい文化日本にふさわしいものは生まれて来ないであろう」(114ー5頁)とする。だから、国内Excursion、Holiday makingは「観光」とは言わずに、「他に適当な言葉を見出し、対外国人の場合とはっきり区別したい」とする(115頁)。

 秩父宮は、このExcursion(小旅行、遠足)について、@都市住民が「田園の清い空気にひたり、四季おりおりの自然の美に接し、見聞を広める」など、都市生活からもたらされる精神的肉体的疲労を回復して、「勤労のための生気をたくわえるに足るもの」であり、A「青少年の場合」には「その要求はとくに強い」とし、Bこれは「日曜などの休日または休暇を利用して行われる」(Holiday making)から、「外国人の観光とは根本的にその本質を異にしてい」て、「その施設は経済的余裕のある外国トゥーリストを対象とするものとは全然異な」り、「簡易に多数の人が利用できるもの」(国民保養温泉地、公営国民宿舎などか)であり、C「農村の人々のために日頃の労働の疲労を休め得られる」とか「文化施設に恵まている都会に出て教養を高めることを容易ならしめるべき」とする(115頁)。

 ホリディ・センター このホリディセンターについては、「国家の発展、民族の興隆は一に青少年にかかっている」から、国家が「青少年を健全な、そしてこの重大な使命を果たしてゆくに足るものにする」ために「最大の関心を払」うべきであり、「その最も重要な一つ」が「彼らの休暇をいかに有効に使わせる」かだとする。外国では、過去に、「休暇が不健康な肉体的、物質的消費以外の何物でもないとみなされ」、「休暇有害論があった」が、現代は「休日を意義あるよう過ごせるいろいろの施設が発達」しているから「休暇は充分に与うべき」となっているとする。

 しかし、日本では、こういう提唱は「戦前においてすらほとんどなかった」し、「まして現在は絶無ではあるまいか」とする。しかも、「青少年についてあらゆる非難の加えられる今日」では「この種の施設は急務中の急務」である。だが、「日本の現状はこれが施設に直ちに着手する事も許されないし、仮にあっても、なかなか利用は困難だと考えられる」(116頁)と指摘する。

 そこで、「現在なすべきことは、これが施設をなすべき土地を国家の法律によって確保することである」とする。その土地の広さは、「各種レクリエーションを行ない得、かつ好ましくないものが近くにできないように、相当のスペースをもたなければならない」とする。そして、このホリディセンターの設置場所は、「全国にまず、少なくとも十ヵ所くらいは設けられ、あるいは海岸、あるいは温泉地」を選出する。こうした候補地としては、「海岸としては伊豆半島、瀬戸内海の某島」、「高原としては阿蘇山、八ヶ岳」があり、「温泉地としては現在すでに有名となって俗化している所は絶対に避けなければならない」とする(116ー7頁)。元陸軍参謀らしきというべきか、ホリディセンターの実現方法まで細かく指示しているのである。終戦後4年で、陸軍少将秩父宮はここまで変貌したのである。

 青少年教育 こうした青少年教育は、当時の秩父宮の重要課題の一つであり、「時事断想」(世界の日本社、昭和23年刊)でも、次のように述べられている。

 秩父宮は、今の日本では農村も都会も「出来損なっている」から、「新日本だ、文化日本だ、民主日本だと言うけれど、そういう大きな建設に向ってスタート線に立ち並ぶというところまでも行っていない」、「走者が未だ走る方向を向いていない。横を向いたり、後を見たり。否、走る方向が示されていない」と指摘する。終戦後に、秩父宮は「新聞記者が来て、何か青年に対して言うことはないかと聞く」から、「現在の壮年なり老年なりがもっと反省して、青年が希望を持ち、はっきりした目標を撮り得るような社会状態に持ってくることが先決問題である。社会を今のような混沌たるものにしておいて、青年にどうあれと言っても、それは無理だ」と答えた。これは、「半年程前(昭和21、2年頃ー筆者)のこと」だが、「現在とてもそうでないか」とする。そこで、彼は、「青年の持っている純なる本質」を踏まえて、「方向さえ示せば、希望さえ持たせれば、青年というものは非常な力を発揮して、新日本建設のために働くと思う」とするのである。「青年位、祖国のために、民族のために、はたまた世界人類のために、己を捧げる者はない」とするのである(秩父宮雍仁「御殿場清話」[秩父宮雍仁『皇族に生まれてUー秩父宮談話集』渡辺出版、平成20年、145−6頁])。

 従って、秩父宮の「観光」論とは、こうした当時の青少年問題への対策によって、「日本人が社会人としてさらにさらに高い品性をも」つ国際観光を実現するということになろう。


                  補注二 矢野次郎談「国家歳入の増殖策」 (本篇「一1BA」の補注)

 この明治35年談「国家歳入の増殖策」(石川松渓『名家訪問録』第1集、金港堂。明治36年、74頁以下)で、矢野次郎は国際観光における「戦争と平和」の関係について、「平和的戦争」という言葉を使った。この造語によって、戦争ー軍事優勢下の当時にあって、教育者の立場から平和産業たる国際観光もまた国家歳入上では戦争と同じく重要であり、かつそこに国際理解、国際親善で平和を維持する手段という意味を強く込めようとしたものとして、国際観光史上でこの「平和的戦争」という用語は大いに注目される。資料紹介を兼て、以下これを取り上げておこう。

 矢野は、「欧米諸強国と対等の位地を得たる日本は、総てに於て列国の後ろに立たぬやうに注意しなければならぬ」として、「昨今列国が頻りに美術を奨励する所以のものは、即ち平和的戦争の勝利を博せんとするに過ぎない」ことだと指摘する。「平和的戦争の勝利」とは、刃や砲弾を用いずに「商業的画策」で「国家歳入を増すの策」であるとするのである(石川松渓『名家訪問録』75−6頁)。

 スイスの国際収支において、「時計輸出の収入」が第一だが、「スイスに旅行して古社寺古美術を見物する客」が「費消する金は年々何千万弗の巨額」になっている。イタリアの「羅馬の如きも其の建国の久しき古社寺、その他の参観すべきもの多く、矢張これも旅客の遣ふ金が国家経済の一助たる事は疑を容れぬ」とする。これを踏まえて、日本の古美術を取り上げ、「関東の日光、関西の京都、奈良の如き美麗荘厳の古社寺は決して軽視すべきものでな」く、「外国人の旅客、年とともに多きを加ふるは頗る慶すべき事で、これが為に我邦の収入は(精確の調査も出来まいけれど)殆んど3百万円の上に登」り、「立派な国家歳入と申して宜しい」とする(石川松渓『名家訪問録』76ー7頁)。

 しかし、こうした国際観光収入の弊害として、@日光東照宮の「三代将軍廟堂の前、敷石の左右に敷詰たる那智山より取寄たとか云ふ黒い丸石の上をば、何等か取締上、丸太柱を立てて囲をしてあって、亜鉛滅金の鉄線を以て、無造作に此の丸太杭に巻付け」、「無趣味=没趣味」で見苦しく、A日光公園は「実に天然自然に出来たかと思ふ程、立派な庭園で樹木、丘岡(きうかう)、大池等悉く備はり、風景絶佳の眺望である」が、ここも垣が「丸太杭に亜鉛の鉄線を巻付け、殊に其杭も所々に倒れて居る所がある」ので、見苦しいから、改善してほしいとする(石川松渓『名家訪問録』77−9頁)。

 矢野はこの一例を挙げて、これは古社寺の禰宜、神主には「美術思想がないから」だとして、これでは「この二十世紀に処して十分な働きは出来ぬ」と批判する。そこで、「宮司或は禰宜の顧問官として立派な人間を聘傭する」ことを提案する(石川松渓『名家訪問録』79−80頁)。

 さらに、日光では、「風儀の悪い事は、人力車の価格一定せず、客を見て恣(ほしいま)まに上下すること」であり、「此の方面に関する実業者(経営者)が陋劣極まる手段を以て客の懐中を狙ふと云ふは甚だ不都合の行為」と指摘する。「若も外国人に日本は悪い習慣がある、日光は嫌な風習のある所だ云ふ観念を起さしめ、旅行者の数を減ずるやうな事になったならば、所謂一文惜の百損となるは鏡にかけて見るが如しである」と忠告する(石川松渓『名家訪問録』80−1頁)。

 そこで、矢野は、外国人応対上で、「注意の上にも注意し、礼儀を正しふするは勿論、深切鄭寧、叨(みだり)に金銀を貪って彼らの感情を害し、彼らをして、『再び日光に足を入るべからず』の警晤を放たれぬ様に深く注意して、彼らをして愉快に此の風景を見させる事にしたい」と説く。かつ、不相当な料金を請求するなどの悪弊は断固一掃すべきとする。こうして、「先づ第一に美術保存を全ふし、外国旅客の取扱を一般に注意して、一人もヨリ多くの旅客を引入れ、国家収入を増の計に出るなければならぬ」と提言するのである(石川松渓『名家訪問録』80頁)。


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 ※ このペリー来航の意義(本論「 一 明治維新と日米戦争」の「2 天皇と日米戦争」における)については、以下の見解がある。因みに、日米戦前史における「戦争と平和」の関係を考える上で、「ペリー来航と真珠湾奇襲」は、国際観光・日米親善という平和努力に逆行する、日米戦争要因と作用したともいえるものである。   
        
                     1 日本のペリー来航評価 

                      @ ペリー来航の意義 

 このペリー来航の意義について、まず日本側から見れば、それは、@輸出産業を促進し、幕藩体制流通機構を解体させ、諸物価を騰貴させ、民衆の生活困窮を促進させ、A日本が西欧列強帝国主義との対峙を促進させ、倒幕派と佐幕派との対立を深刻化させて戊辰戦争をもたらし、倒幕を早めたというものであった。

 そして、日米戦争継戦派指導者の井田正孝陸軍中佐(岐阜、45期)は、「大東亜戦争・・の主因はアメリカの東洋進出の国策遂行」にあり、「ぺルリ艦隊を東洋に派遣し琉球列島などの中継地占領をも企だて」た「米艦の浦賀強行入港」は「この国策遂行の一環」(西内雅・岩田正孝『雄誥』日本工業新聞社、昭和57年、3−6頁)だと指摘して、日米対決の原点ともしている。また、昭和21年に、元陸軍中将石原莞爾は、東京裁判出張法廷で、「お前らに日本を裁く資格などない。ペリーが来航したときからの史実を裁判すべきだ。自分は今度の戦争のための被告となるから、その次にペリー来航以降の歴史について、お前らを裁いてやる」と言った(保阪正康、鈴木邦男『昭和維新史との対話』現代書館、2017年、171頁)。これが、当時の少なからざる陸軍幕僚らの基本的見解であったろう。

 さらに、特に旧朝敵の汚名をかぶった陸海軍首脳にとっては、ペリー来航は自らの軍人としての展開の原点ともなる場合もあった。例えば、大正4年、男爵瓜生外吉海軍大将紹介で、高野五十六(後の山本五十六)が、米国人作家ウィラード・プライスと会談した際、@五十六は幼少時より「父親から毛むくじゃらの野蛮人の話を聞かされ」「アメリカを憎んでい」て、アメリカ人は、「文明開化を触発した『恩人』」ではなく、「文明を正義と単純に信じ込んでいる暴力の亡者」であり、A五十六が海軍を志望した理由は「ペリー提督のお礼参りがしたかった」(三輪公忠『隠されたペリーの「白旗」』[工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎、平成23年、357−9頁])からだと答えた。彼にとって、ペリー来航は、米国の「奇襲作戦」(いざという時には江戸市中に砲弾を撃ち込む作戦でもあった)以外のなにものでもなかったであろう。

 なお、山本五十六には、こうしたペリー来航への「復讐」のみならず、旧朝敵長岡藩の汚名挽回という意図もあった事が留意されよう。長岡藩軍事総督河井継之助が官軍軍監岩村精一郎と恭順談判をしたが、決裂して戦争を余儀なくさせられた。故に、長岡人は回避できた戦争を薩長に余儀なくされたと見ており、長岡では「子供たちに学問をさせ、中央へ出て賊軍の汚名を晴らすような活躍をさせる」ことが、「長岡の主だった人たちにとっての暗黙の了解事項」(工藤美代子『山本五十六の生涯』34頁)であった。長岡に生まれた山本五十六(元長岡藩士高野貞吉の6男、後に元藩主牧野忠篤子爵の強い推薦もあって長岡藩家老山本家養子)もまた、薩閥海軍に入り海軍大将・連合艦隊司令長官にまでなって旧朝敵の汚名を晴らした一人であった。昭和14年10月23日、「九段の軍人会館で、長岡中学校の同窓会と長岡社が合同主催で、五十六の聯合艦隊司令長官と小原直(元長岡藩士田中敬二郎の三男、元会津藩士小原朝忠養子)の内務大臣就任を祝う、祝賀会を開催した」(工藤美代子『山本五十六の生涯』338頁)際にも、五十六には長岡の汚名を晴らさんという郷土の人々の強い思いを新たにしたであろう。さらに、山本は真珠湾奇襲戦法で米国太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えて米国士気を阻喪させ、さらに大きく汚名をはらそうとしたのであった。

 旧朝敵長岡人にはこうした汚名挽回の思いは強かったのであり、昭和50年頃でさえ、長岡出身者が「新聞で本の刊行を知りました」と筆者に電話して、河井継之助は決して戦争をする意図はなかったと真摯に話した。戊辰の屈辱は、旧朝敵諸藩の人々には実に根深いものがあったのである。その後は、小林虎三郎(戊辰時に開戦に反対)が戦後長岡藩大参事となり、三根山藩(長岡藩の支藩)から贈られた救恤米百俵を教育にあてれば明日の一万俵、百万俵になると主張して、国漢学校(明治2年5月昌福寺に開校)にこれを投入して教育振興を図った事が、大いに評価されだした。先駆的には、日米戦争中に山本有三が『米百俵 隠れたる先覚者小林虎三郎』(新潮社、昭和18年6月)を刊行し、戦後に小泉純一郎首相が、第一次小泉内閣時の平成14年5月の所信表明演説で、この「米百俵の故事」を国民の「改革に向かう志と決意」を促すために引用して、これが全国的に知られることになった。なお、明治3年6月坂之上町に国漢学校校舎が新設され、明治7年にこの校舎に坂之上小学校が設立され(「長岡市立 坂之上小学校」のHP)、明治23年4月に山本五十六がこの坂之上小学校に入学している(工藤美代子『山本五十六の生涯』31頁)。河井継之助開戦に反対した小林虎三郎由縁の小学校で、五十六は汚名挽回の教えをも受けたのであろうか。

                       A 真珠湾奇襲作戦 

 では、この真珠湾奇襲戦法は有効だったのか。

 漸減邀撃作戦 この漸減邀撃作戦は明治末から提唱され、その最初のものは、明治40年2月陸海軍協議で策定した「帝国国防方針」から看取される。これは、山県有朋が、日清戦争、日露戦争を乗り切ったが、戦後の軍備拡張のために、激化が予想された陸海軍対立の是正をめざして、「外務省や大蔵省との協議もなく、閣議の了解もとらずに」、「陸海対等」(両翼両輪主義)、「南北併進」(陸軍の対ロ北進論、海軍の対英米南進論)で妥協して、作り上げた山県私案を、「天皇に働きかけ、・・陸海軍統帥部に押しつけ、公式決定」と粉飾したものであった(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社新書、2006年、178ー181頁)。ここでは、「ロシアとアメリカを仮想敵国に定め、陸軍は25個師団(戦時50個師団)、海軍は戦艦8・巡洋戦艦8を基幹とする八八艦隊の建設」が要請」されていた。

 さらに、対米作戦に就いて見ると、将来の敵として「露国を第一とし、米・独・仏の諸国之に次ぐ」とし、米国については「我友邦として之を保維すべき」としつつも、「地理、経済、人種及宗教等の関係より観察すれば、他日激甚なる衝突を惹起することなきを保せず」とし、「対米作戦は開戦劈頭、先つ敵の東洋に於ける海上兵力を掃討し、大西(平か)洋を制御し、且帝国交通路を確保し、併せて敵艦隊の作戦を困難ならしめ、然る後敵本国艦隊の進出を待て之を邀敵撃滅するに在り」とする(秦達之『海軍の「坊ちゃん」 太田三次郎』論創社、2005年、60頁)。ここには、海軍の対米作戦の原型(@潜水艦などによる米国艦隊の漸減[フィリピン制圧による米国東洋艦隊の掃討、太平洋の制海権確保と敵艦隊作戦の困難化]、A削減された米国艦隊の邀撃)が打ち出されていた。

 その後、ワシントン海軍軍縮会議(大正11年)で、「米海軍の渡洋攻勢に対して近海に防御作戦する為に必要なる最小限度の兵力」として「日本が五対三・五即ち七割海軍を主張した」。これは、「日本は米国に対しては常に沿海に守勢を取る旨を声明したに等しいのであ」り、日本海軍は「最初から守勢を以て満足するのを海戦略の根本と定め、その見地から七割を主張したのであ」った。然し、周知の通り、結局、艦艇が英:米:日がそれぞれ、5:5:3の割当となり、「日本の遠海攻勢は論外として近海守勢さへも不充分なりと論ぜられた程の低劣なる勢力比」(伊藤正徳『想定敵国』大正15年刊、95頁)となったのである。ここに、日本海軍の対米作戦として、改めて守戦方針(邀撃)、来攻米国艦隊戦力の戦闘開始前の削減(漸減)の戦略が決まったのである。

 昭和2年に西浦進(昭和2年陸軍大学校第42期、同期の服部卓四郎、堀場一雄と共に陸士34期三羽烏)が陸大一年次に書き写した斎藤七五郎(甲種4期[明治35年入学]海軍大学校首席、大正2年大佐、同7年少将、11年中将、13年軍令部次長。15年7月胃癌で死去)「帝国海軍の軍戦備」要録*も、この漸減邀撃作戦を展開したものであった。

 *当時陸大では、重要講義を「戦術参考書」に編纂して生徒に提供していた。例えば、松川敏胤(後の陸軍大将)は「仙台出身で、陸大三期を恩賜組で卒業」し、「抜群の理論家」であり、彼が陸大で講義した「基本戦術講義録」は「同校の戦術参考書」となっていた(村尾国士「反長州閥の栄光と没落」[『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、58頁])。この斎藤七五郎の「帝国海軍の軍戦備」要録もそうした参考書の一つであった。

 この大正末期の斎藤七五郎の邀撃作戦では、まず、「日本海軍の対米作戦構想は・・東洋にあるアメリカ艦隊を撃滅して、陸海軍協力してマニラ湾周辺を攻略し、遠征してくるアメリカ艦隊主力を小笠原諸島西方海域で邀撃」するにあるとする。

 次いで、斎藤は、「アメリカ艦隊は太平洋を横断する時、戦艦を中心に置く大輪形陣を作り、遠洋してくるものと判断され」、その「六割の兵力でこれに対抗するために、日本は最終的な決戦に先んじて、アメリカ艦隊を途中で攻撃しておくことが必要である」とする。この輪形陣とは、防御力の弱い空母が敵戦闘機の攻撃を回避するためにアメリカが研究してきた戦法であり、「空母を輪型陣の中心にして、戦艦を含む他の艦艇がその周りを二重の円形に取りまき、(敵)攻撃機が突っ込むための死角をなく」(山本義之「太平洋戦争における軍艦の防御?」『防衛技術ジャーナル』2002年1月)すというものであった。この斎藤指摘は、@日本は既にアメリカの輪形陣という航空主兵戦法に気づいていた事、Aアメリカは以後十数年この輪形陣戦法を磨き上げる事という点において重要である。

 斎藤は、この時点において、この航空主兵論に立った輪形陣戦法に対して、日本海軍は、「大型潜水艦群をハワイ方面に派遣して、敵情視察と奇襲に当たらせ」、「駆逐艦群は、夜襲による魚雷攻撃により、敵主力艦隊の漸減を図」るとしたのであった(土門秀平[第55期、機甲科]『戦争を仕掛けた国、仕掛けられた国』光人社、2004年、65頁)。このように、この邀撃戦による「最終的決戦」に先立ち、大型潜水艦によるハワイ奇襲、駆逐艦による敵主力艦夜襲によって、日本艦隊より四割多いアメリカ艦隊の削減が構想されていたのである。つまり、日本海軍は、航空主兵主義に立脚したアメリカ輪形陣戦法に艦隊決戦「思考」で臨み、基軸たるべき空母、飛行機の「削減」ではなく、「敵主力艦隊」削減を目的としていたのである。従って、ここでの奇襲作戦はあくまで副次的・小規模な作戦であり、まだ航空機戦力の活用は取り入れられていない。

 ロンドン軍縮会議(昭和5年)では、補助艦が対米比率6割9分7厘5毛、潜水艦は日米同量 (5万8千トン)となったが、大型巡洋艦は対米比率6割にとどまった。基本的に漸減邀撃作戦に変わりはないが、日米同量となった潜水艦(及び制限対象外の航空機)で漸減成果の向上が可能になった。こうして、日本海軍の対米作戦の基軸は、来攻してくる米国艦隊を太平洋上で邀撃する作戦(「来攻する米国太平洋艦隊をマラリア沖の海域で邀撃し、戦艦の大口径主砲を中心とする戦力で決戦を挑む戦法」[千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、2008年、83頁])となったのである。

 軍令部は「毎年その年度の作戦計画を策定し、御允裁を仰ぐことになって」いたから、毎年邀撃作戦計画が作成されたことになる。昭和16年度では、「対米戦の要領も、まず鉾先をフィリピンに向けてこれを攻略し、同時にグァム島を奪って南洋諸島の防備をかため、これを拠点として防衛捜査網を構成し、、米渡洋作戦の主力を本土近海深く誘いこんで、いっきに勝敗を決しようとする」としていた。そして、「米英二国を対手とするならば、さらに香港、マレーの攻略が必要で、これにオランダが加われば一層苦しい戦いになる」(草鹿龍之介『連合艦隊 参謀長の回想』中公文庫、2021年、32頁)としていた。このように、邀撃地域は、明治40年2月策定「帝国国防方針」は特定せず、斎藤七五郎は小笠原諸島西方海域とし、千早正隆(海兵58期、中佐で終戦)はマラリア沖とし、草鹿龍之介は本土近海深くとしていて、時期或いは担当者によって邀撃海域は一定していないのである。従って、この邀撃作戦は、米国艦隊がどこから攻撃してくるか分からず、故に邀撃場所が事前に特定できないばかりか、あくまで大艦巨砲を基軸とする艦隊による決戦構想であり、第一次大戦で注目されだした航空機の積極的運用が攻撃・邀撃両面でドロップされたものであった。

 大規模奇襲作戦 山本において、この大規模奇襲戦法が航空機の観点から重視されだした「別の背景」(つまり、ペリー奇襲来航への復讐とは別の理由)と問題性を瞥見してみよう。昭和16年1月7日付及川古志郎海相宛書簡で山本五十六連合艦隊司令長官は、「作戦方針に関する従来の研究は、正々堂々たる迎撃大作戦(つまり大艦巨砲作戦)を対象とする」が、「屡次図演(図上演習)等の示す結果を見るに、帝国海軍はいまだ一回の大勝利を得たることなく、このまま推移すれば、恐らくはジリ貧に陥るにあらずやと懸念せらるる情勢にて演習中止となるを恒例」としているので、「いやしくも一旦開戦と決したる以上、この如き経過は断じてこれを避けざるべからず」(千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、2008年、85頁)としたように、海軍伝統の邀撃作戦は図演で一度も大勝したことがなかったという事である。図演などするまでもなく、当時の国力では伝統的邀撃戦(大艦巨砲作戦)では到底勝ち目はないのである。そればかりでなく、年と共に日米の海軍力格差が拡大し、日本海軍は「ジリ貧」になって、敗北度がますます大きくなってゆくというのである(この点については、相澤 淳「太平洋戦争開戦時の日本の戦略」『戦争史研究国際フォーラム報告書』第8回、2010年、も参照)。

 ここから、山本は、漸減邀撃作戦における「漸減」において、真珠湾奇襲という「敵の主力艦隊に痛打を浴びせる大胆きわまる提案」をするのだが、日露戦役緒戦で「敵の根拠地である旅順口に対して水雷戦隊(駆逐艦部隊)が奇襲攻撃を加えたが、不徹底であった」ことを想起して、今回は全ての「空母機で徹底的にやる」ので承認してほしいとした。日露戦争は「仁川港のロシア艦隊奇襲(明治37年2月)で始まり、東郷艦隊は旅順港を包囲してウラジオ艦隊との連携を断」とうとしたが、「閉塞効果は十分とはいえ」ず、旅順艦隊が出撃してきたのである(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社新書、2006年、47頁)。山本はこの日露戦争緒戦の奇襲作戦の不徹底さを指摘して、真珠湾への徹底的な航空機攻撃を提案したのである。

 山本は大正期から、航空機に着目して、ワシントン、ロンドン軍縮条約による艦船削減の一補充策としても、海軍航空戦力の強化を重視していた。そして、この海軍航空戦力強化が実現できたのは、これを大艦巨砲主義の艦隊派も支持したからであった。昭和4年6月13日、東郷平八郎元帥は財部彪海相に「国防の欠陥を補填」する書類の作成を要請した。その結果、「東郷とその陰に隠れた軍令部や条約反対論者は、ロンドン軍縮条約を受け入れる代償に、主力艦や補助艦に代わる軍備拡張(航空機、潜水艦など)の印籠を手に入れることになった」(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、173−8頁)のである。 

 彼は、この真珠湾奇襲による敵艦船削減で一、二年ぐらいは攻勢を維持できると考えていた。そこで、「連合艦隊司令長官から格下げされてでも、この奇襲部隊の指揮に当たらせてくれ」と、伝統的な邀撃作戦の補完ではなく、自ら大規模奇襲作戦を担当させてほしいとしたのである。しかし、この正統的攻撃法とは異なる大規模奇襲作戦は「日本海軍の作戦方針の全権を握っていた軍令部と、真っ向から対立」するものとなったが、昭和16年10月中旬に真珠湾奇襲攻撃が承認されなければ、連合艦隊司令長官を辞任すると宣告して、「やっと承認」させたということになっている(千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、2008年、85−6頁、草鹿龍之介『連合艦隊 参謀長の回想』中公文庫、2021年、37頁)。

 しかし、日露戦後の日本海軍の正統的な米国艦隊邀撃作戦が勝率0%(時には小勝ぐらいあったとしても、大勢では勝てないのである)では、軍令部としても山本奇襲戦法が海軍伝統の大艦巨砲(その象徴が昭和16年12月16日竣工の戦艦大和[この戦艦大和を最初に提起した人物と言われるのが艦隊派に連なる石川信吾である])の艦隊決戦基軸作戦に反しているとは反論できないし、それを否定する根拠は薄弱であったろう。ならば、軍令部は、起死回生策としての山本真珠湾奇襲戦法の勝率・問題性などを数回の図演などで確認し、@空母艦隊が真珠湾にいない場合の攻撃目標・程度、A空母艦隊が戻ってきた場合の反撃方法、B真珠湾奇襲戦法による対米中長期戦に耐える海軍力の確保の可能性などを緻密に詰め、総合的に判断して真珠湾奇襲戦法についての是非、日米戦争勝敗の見通しの結論を出すべきではあったが、軍令部は「米国艦隊邀撃作戦の勝率0%」で押し切られたというのが実情であったろう。

 この山本奇襲戦法提案の一背景として、河井継之助が、横浜居留地でスイスの中立思想を知り、アメリカのガトリング砲を入手し、和戦両面で「新機軸」を打ち出そうとしていたことも一定度影響していたであろう

 山本奇襲作戦の問題点 では、この奇襲戦法の問題点は何であったのか。

 第一は、戦果は、戦艦4隻撃沈、同4隻大中破で、アメリカ保有艦船15隻が減少し、日本艦船10隻と、「ほぼ対等となった」(手島恭伸『海軍将校たちの太平洋戦争』吉川弘文館、99頁)というが(これは艦隊決戦主義的思考である)、空母や貯油場などは無傷であり、且つ損傷艦船の修復が迅速であり、当初の戦果実現度においてかなり問題があった。第二は、一、二年は攻勢を維持するという目論見は崩れ、敗勢、敗北の坂を下っていったことである。一、二年しか攻勢を維持できないような戦争は初めからするべきではなかったという問題である。第三は、日本に大和魂、楠公精神があったとすれば、アメリカにはヤンキー魂があり、この「事後通告」奇襲戦法はヤンキー魂に火をつけ、避戦平和の公約で大統領選に勝ったルーズベルトに日米開戦の大義名分を与えたという問題である。

 第一の問題点を敷衍すれば、山本は、基本的には航空主兵主義にたちつつも、当時の軍令部の主流的思考である艦隊決戦主義にも配慮せざるを得なかったということである。こうした日本海軍における「艦隊決戦派と航空主兵派の対立」は、ミッドウェー海戦では最悪の結果を生むことになった。ゴードン・W・ブランゲ(GHQ戦史室長、後に米国海軍大学校教官)は、この艦隊決戦派と航空主兵派との「齟齬」が敗因となったのがミッドウェー海戦であったとしている。彼は、ミッドウェー作戦失敗の要因として9要因をあげているが、一番目の敗因として、作戦目的で山本は、「ミッドウェー島を攻撃して占領する」事と「アメリカ太平洋艦隊の空母を誘い出して撃滅する」事という「二つの目的」をたて、「二兎を追う者は一兎をも得ず」となった事をあげる。二番目の敗因として、攻勢では、「日本の連合艦隊は敵を日本本土とその海域から遠ざけるための守勢にまわった作戦(邀撃作戦)であった」事、三番目の要因として、「接触点における優勢」にも拘らず、山本は「分散配置して、集中効果を不十分にした」事、かつ「大艦巨砲主義と航空主兵主義」という「二つの日本海軍の流れに立」って「いずれともつかぬ作戦に出た」事をあげている。そして、「航空戦が主力時代となって、日本海海戦とは全く違う戦いとなり、通信網が発達し、即時に情況を把握できる科学化が進んだ以上、ニミッツのように、真珠湾にじっと居座って、地味ながらも変転する情報に即座に対応できるようにすべきであ」り、山本は「基本的な所で」失敗していたとする(『ミッドウェーの奇跡』千早正隆訳、原書房、1984年[真木洋三『東郷平八郎』下、文芸春秋、昭和60年、255−6頁])。

 周知のように、ミッドウェー作戦の「機動部隊の参謀長」草鹿龍之介は、真珠湾奇襲「成功」の「ちょッとした驕慢心」、「敵機動部隊」の把握が二次的になった事、「機密保持の不完全」などをあげつつも、「まず敵機動部隊の捕捉撃滅を第一義とし、しかるのちにミッドウェ―攻略を進めるべきだった」(草鹿龍之介『連合艦隊 参謀長の回想』中公文庫、2021年、140−143頁)と反省している。敗因の主因については、ブランケも草鹿も同じなのである。なぜ日本機動部隊は、「敵機動部隊の捕捉撃滅を第一義」とできなかったのか。それは、言うまでもなく軍令部が艦隊決戦の邀撃主義を固持していたからである。

 その結果、米国機動部隊は、ミッドウェー作戦を事前に探知して、長年練り上げて来た「戦艦を中心に置く大輪形陣」艦隊で攻撃してくるのに対して、日本機動部隊は、ミッドウェ―島攻撃と艦隊決戦主義のもとに行動し、米国機動部隊から出動する爆撃機・戦闘機から空母を防衛する態勢に欠けることになったのである。米国は空母の爆撃機に弱いことを輪形陣で補完していたが、日本の艦隊決戦主義ではこういう発想がでてこないのである。だから、ブランゲは、山本五十六が、空母決戦が海上戦闘の主軸となりつつあったことを把握していたが、従来の艦隊決戦派に配慮してしまった事がミッドウェー作戦失敗の一主因だとしているのである。それだけ、日本海軍では日露戦争の邀撃戦法神話が大きかったということである。

                  2 アメリカのペリー来航評価 

 次に、アメリカ人のペリー来航の評価をみると、概ね二つの評価がみられる。

 主流的見解 一つは、主流的な見解である。米国海軍は、「ペリーの締結した神奈川条約はアメリカ合衆国と日本の間で重要な商業的な取引をもたらし、日本を他の西欧諸国に開放することに貢献して、最終的に日本の近代化をもたらした」( The Navy Department LibraryのHP)と積極的に評価する。そして、その日本近代化に対して、ペリーは、未開日本の閉ざされた扉をこじ開けて開放したが、それは結果的に「『日本帝国という魔性』を解き放した」(ウォルター・リップマン『アメリカの外交政策』[ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』170頁])ということになったとする。

 問題は、当時のアメリカの実態である。当時のアメリカでは、@米墨戦争で「カリフォルニア地方は合衆国に委譲」され、「同地方の太平洋に臨む位置を見て、人々は商業企業の分野が広大せられたとの考えを抱かざるを得な」くなり、その勢いで、「もし東部アジアと西ヨーロッパ間の最短の道が(この蒸気船時代に)吾が国を横ぎるならば、吾が大陸が、少くとも或る程度まで、世界の街道となるに違ひないことは十分に明らかであ」り、A「特にカリフォルニアでの金発見で通商が触発されると、「西海岸とアジアとの直接交易の考は日常普通のことになった」(土屋喬雄・玉城肇訳『ぺルリ提督 日本遠征記』(一)岩波書店、昭和48年、206頁)のであった。こうしてアメリカの太平洋通商への関心が高まったが、当時の日本は、「産業技術の進歩」し「極めて勤勉で器用な人民であり」、ある製造業では「如何なる国民もそれを凌駕し得ない」水準にあり「商業経営者を誘惑する吸引力をもっている」にも拘わらず、オランダを除いて、欧米諸国には扉を閉ざしていた。この鎖国日本は「考へ深い人々の異常な興味の対象」であり、「キリスト教国」の「好奇心」の対象となっていた。ここに、アメリカ側に、日本の鎖国を破って最初の通商条約締結者となるのは、「各国民のうちで最も年若き国民」、つまりアメリカだという気運が生じてきたのである(同上書26頁)。

 当然、アメリカ人は、その時のアメリカを「侵略的民族であるとは思っていない」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』218頁)のである。「ほとんどのアメリカ人」は、「インディアンとの戦いは正当防衛であり、メキシコとの戦争はテキサス、ネヴァダ、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、コロラドの大部分とカリフォルニアを獲得するための解放行動だったと信じている」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』238頁)のである。そういう解放行動の一環として、ぺりー来航を積極的に評価するのである。こういう解放運動の延長に日本開国がとらえられることになる。マッカーサーらが本国からわざわざペリー艦隊旗を取り寄せたのは、彼らがこうした見解に立脚していたからであろう。

 少数派の見解 もう一つの見解は、アメリカでは少数派であるが、このペリー来航をアメリカ帝国主義の一環とみるものである。例えば、ヘレン・ミアーズは、幕末期アメリカの実態が帝国主義的侵略だとする。ヘレンは、アメリカは「三百年の間に、インディアン、イギリス、メキシコ、スペインを打ち破り、フランスを脅かし、国家統一のため内戦を戦い、大陸の3002万238平方マイルを獲得して定着し」、さらに「国境を越えて進出し、ときには大陸の縁から7000マイルも外に出て大国と戦ったり、現地住民の反発を抑えて71万2836マイル(日本列島の5倍に相当する面積)の海外領土を得」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』218−9頁)ていたとするのである。アメリカはしたたかに領土を侵略し、領土を拡張していたのである。ヘレンも指摘するように、これを帝国主義的侵略と言わずしてなんと言おうか。この時期のアメリカ資本主義について、それを自由貿易段階の植民地主義と把握し、独占資本主義段階の植民地主義と異なって「緩和」されていたとする場合があるが、帝国主義にかわりはないということだ。しかも、民主主義の形態を取りつつも、黒人差別を初めとして人種差別をおこなっていた。アメリカ民主主義とは、僅かな貧者・弱者を富者にのし上げ、いかにも自由の国であるかのような体裁をつくろってはいたが、基本的には多くの富者がますます富者になるシステムであった。これがアメリカ「民主主義」の実像である。

 元ニューヨークタイムズ東京支社長ヘンリー・S・ストークスの場合は、このアメリカ帝国主義の実相を具体的に指摘する。彼は、2隻の蒸気船(「サスケハナ」、「ミシシッピ」)と2隻の帆船(「糧食や物資を運ぶ」)からなるペリー艦隊は、「アメリカ海軍の制服に身を包ん」だ「海賊集団」(ヘンリー・S・ストークス、藤田裕行訳「ペリー襲来から真珠湾への道」[加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社、2012年、171頁])であり、「星条旗をはためかしていたが、現実は黒い海賊旗を掲げ」、先端兵器のシェル・ガン(炸裂砲弾)を並べ(同上書172頁、212頁)、「国際法に照らして、日本に対して海賊行為を働」(同上書174頁)いて、「アジア最後の処女地を踏み荒らそうと」(同上書173頁)して、日本を武力で「威嚇」したとするのである。特に、ミシシッピ号は「ペリーの指揮下でメキシコ戦争を戦」(同上書192頁)った侵略実績のある軍艦であった。

 ヘンリーは、@幕末の日本人は、「キリスト教徒による暴虐な殺人と略奪が、アジアにおいて次々と続いたのを、知っていた」から、「ペリーの黒船艦隊が浦賀に出現した時に、江戸の衝撃が大き」(加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』212頁)く、A日本側は「国法に従って、長崎に回航してほしい」と嘆願しても、ペリーは不法にもこれを無視して、Bペリーは、「日本の神を蛮神として、そこにはまったく敬意を払うこと」なく、帝国主義「神」の使命を果していると正当化して、「そこが自分の領地であるかのように、傍若無人に侵入」し、「優れた文化を持っていた国」を「陵辱」(同上書174頁)し、蒙古襲来以来初めて日本に「侵略を蒙」(同上書173頁)らしめたとする。

 そして、ヘンリーは、@ペリーは、「日本に不幸な火種を植えつけ、西洋に対して長年にわたって燻り続けた敵愾心を、いだかせ」、この火種が1世紀後に真珠湾攻撃・香港(英国植民地)への攻撃として燃え上がり、Aこの日本反撃について「日本を責めることはできない」のであり、ペリー艦隊が日本を陵辱しなければ「山本五十六大将が率いる連合艦隊が、真珠湾に決死の攻撃を加えることはなかった」(同上書174頁)とするのである。このアメリカ「少数派」意見は、日本軍首脳の意見を代弁すると言ってもよいくらいに、それに類似している。少なくとも、彼らは、日本軍首脳を軍国主義者とか侵略主義者と見ていないということだ。

                     小 括

 このように、日米戦争時の日本軍首脳や一部アメリカ人は、既に幕末からアメリカ帝国主義の牙が日本に向けられていたとし、それ以後の日本軍事力・軍事工業の展開・充実は侵略的欧米の軍事力に対抗するものとみるのである。一方、アメリカはその日本帝国主義に対応しようとして侵略的行動をとったとしても、それは正当防衛だとするのである。ならば、日本軍首脳もまた「侵略的行動」をとったとしても、それは欧米帝国主義への当然の防衛でしかないと言うのである。日本は、日清・日露戦争、第一次世界大戦で大国となるに及んで、今度は欧米帝国主義からアジアを解放するという大義名分(大東亜共栄圏)を掲げたのである。日本は、「西洋の原則というものは、国際法のうえであれ、人類の幸せを考える人道主義のうえであれ、現実には強い国々が弱い国を犠牲にして、自分たちの利益の増大を図るための術策にすぎないということ」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』265頁)を学習していったのである。開港で始まる欧米帝国主義とのせめぎあいの歴史の中で、日本は彼らの侵略を防衛するために弱者を征圧することを彼らから積極的に学んでしまったのである。日本は、周辺諸国との連帯による欧米帝国主義からの防衛ではなく、周辺諸国の征圧と「擬制」的アジア連帯の大義名分のもとに、欧米帝国主義と同じ道を歩みだしたということだ。昭和23年11月極東軍事裁判の判決は、周知の通り満州事変以後の日本帝国の国策を「一連の侵略行為」(池田清『海軍と日本』B頁)としたが、欧米列強の国策もまた日本以上に長い歴史をもつ侵略的植民地政策だということである。「大英帝国の世界的な解体のなかでの、アジアにおける植民地再編をめぐる日米英の角逐という視座から見直すとき、第一次世界大戦以降の日本が置かれた国際的立場はまことに複雑なものがあった」(池田清『海軍と日本』C頁)が、それはまさにペリー来航・開国に淵源しているということである。



   *なお、筆者は、まだ天皇の学問的総合判断力、観光留意、平和交渉ルートなどの観点をもたない段階で終戦過程について執筆したことがあるが、終戦過程に関心のある方はここを参照されたい。
                                 



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